グノーシスとレーニン

 クリスマスなので、引き続きキリスト教関連の記事でも書きますか。あまりにベタな引用だと面白くない。ここは変化球でストライクをねらってみる。

 本棚の隅っこに「はじまりのレーニン」(中沢新一、岩波同時代ライブラリー)を見つけた。ぱらぱらめくると、あった、あった。第六章「グノーシスとしての党」。

 レーニンの考えでは…いま実現されている世界の「底」を突き破るためには、資本主義のつくりあげるコスモスにたいして、はげしい否定の精神をもった人々からなる「党」を構築することが、最大の重要性をもっていた。


 1世紀前のロシア。改革派である社会民主党では、労働者の運動は、いきなり革命をめざすべきでなく、自然発生性に任せ、賃上げなど労働条件改善をめざす経済主義に集中すべきだとの意見が主流だった。


 これに対し、レーニンは真っ向から反対する。

 意識が自然であるかぎり、それはけっきょくコスモスの秩序におさまってしまう。…だから、自然な状態のなかに、反コスモスの力を注ぎ込んで、コスモスの秩序のなかでのまどろみを破っていかなくてはならない。


 レーニンは、「反コスモスの力の組織化」を可能にする「党」の建設をめざした。それは「職人性」をもった革命家の集団であるべきとした。

 レーニン主義の「党」が、古代キリスト教に発生した、グノーシス異端ときわめて類似の思想をもっていることには、一九三〇年代以降、たくさんの学者たちが気づきはじめていた。

 ここでようやくキリスト教が登場する。


 正統キリスト教会は、大衆の意識の自然発生性を肯定し、「地上に今ある教会こそが、すでにして神の国」と主張していた。しかし、グノーシスたちは、完全なる「新しい人間」の誕生をめざし、厳しい修行を積んだ選ばれたものだけからなる修道院こそ、神の国の実現に必要だと考えた。

 このグノーシスは、紀元1、2世紀ごろにほろびた。しかし、その精神は死んではいなかった。それはレーニンの「党」思想となって、革命のロシアによみがえったのである。

 うーん、「中沢流ハッタリ」にも思えるが、レーニン主義グノーシス思想の一変種としてとらえるのは、多くの先行研究があるという。確かに思想史としては面白い。

このあと、1920年代のドイツの古代宗教研究者、ハンナ・ヨナスを紹介しながら、グノーシスの分析をするくだりが、多くの示唆に富む。

(以下は、引用ではなく要約)

グノーシスは、1,2世紀ごろ、ヘレニズム世界の周辺部に生まれた。それは、キリスト教プラトン主義、ユダヤ教、それに東洋の諸思想が混合した新宗教であり、その特徴は、東洋思想に影響された二元論だった。それは、仏教のように、現実の世界や宇宙(コスモス)の秩序をそのままで承認することを拒否した。

 グノーシスは、真実の神はコスモスによって隠されているが、人間はそれに気付かず、偽物の神が創造した、物質的イリュージョンのなかでだまされたまま一生を終わる、と主張する。人間は叡智(グノーシス)によって、その真理を知るべきだと唱える。
 グノーシスは、ギリシャ思想も否定する。なぜなら、ギリシャ人は、地上に造られる健全なポリスを社会の理想像とし、宇宙と人間との関係を一元的に捉えようとする傾向があるからある。


 そのグノーシスと現代の実存主義は「反コスモス性」との点で共通する。


 以下は、説明が見事なので要約ではなく引用です。

 ヨナスの考えでは、このような「反コスモス的」な思考が、近代のヨーロッパで奇妙な復活を果たしたのである。その出現の最初の兆候を、パスカルの思想に見出すことができる。パスカルギリシャ人と違って、星空を見上げて、恐怖感におそわれる人なのである。


 人間は、考える葦だ。それは宇宙の中に生きる、ちっぽけな生物にすぎない。宇宙はこのちっぽけな生物を押しつぶすのに、武装する必要もない。ちょっとした大気の変化がおこるだけで、この生物は簡単に死滅してしまう。しかし、そのとき、宇宙はそのことを知らないが、人間はそのことを知っている。この「知る」という能力において、人間は、コスモスの秩序に所属することがないのだ。それは、過剰をかかえて、コスモスからはみだしている存在だ。

 そして、そのことを知って生きるとき、人間は実存する。


 この「知る」を「問う(fragen)」に置き換えれば、ハイデガーそのものだ。実際、ヨナスはハイデガーの熱心な読者だったようだ。

 このほか、ユダヤ人と時間性の指摘も面白かった。内容は以下のとおり。

 →「大地への帰属」を拒否されたユダヤ人は、救いの場所を「どこか(空間)」に求めることができず、将来の「いつか(時間)」に求めるようになった。その結果、ユダヤ人は人類史上初めて「時間の民」になった。


 小さな本の40ページに満たない1章だが、眉つば部分も含め、脳みそを刺激してくれた。クリスマスにふさわしい、中沢サンタからの贈り物だった。ただし、変化球が曲がり過ぎて、大暴投になってしまったかもしれない。