クリスマスにイエス誕生異説

 今晩は、クリスマスイブ。ケチをつけるわけではないが、多角的考察という意味から、イエス誕生に関するユニークな日本人聖書学者の記述を紹介してみる。

 イエスの誕生にまつわって福音書に伝えられた物語は、いずれも、その死後半世紀近くたってからつくられた伝説である。

 イエスが生まれた時に、当方から三人の博士が来て礼拝した、という話などは、権力崇拝のにおいがする。ガリラヤの田舎者を、王者キリストの誕生に仕立てあげてしまったのだから、どうにもならない。

 よく泰西名画などで、馬小屋で、わらにまみれた中で、マリアにだかれているイエスを三人の博士が礼拝している図があるが、イエスの誕生を王者キリストの生誕に仕立てあげたマタイ福音書の精神からは、馬小屋に生まれた聖者というような発想は出てこない。


馬小屋に生まれた話の方はマタイ福音書とは全然別の系譜に属する。こちらはルカ福音書にしか出てこない。つまり、(馬小屋に三人の博士というイエス生誕図は)二人の異なった作家の創造した二つの異質な像をひとつにはりあわせたにすぎない。



 処女マリアから生まれた、というのも、エルサレムの近郊ベツレヘムで生まれたというのも、同時期の伝説である。西暦五十年代、つまりイエスの死後二十年ほどたってから著作しているマルコやパウロは、まだこんな話は知らない。どちらも西暦八十年頃にできた伝説なのだ。

 聖の理念が処女に結びつく。これは社会思想の問題だろう。また、イスラエル史最大の王ダビデは、千年前にベツレヘムで生まれた。イエスは、その肉体の死後半世紀たってベツレヘムで生まれさせられた。


 「イエスという男」(田川建三三一書房

 四つの福音書は成立順に、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネとなる。このうちイエス誕生の記述があるのは、マタイとルカのみ。最古のマルコ福音書は、ヨハネによるイエスの洗礼から始まっており、イエスの誕生はもとより、青少年期の記述もない。

 起源の捏造は、宗教に限らず集団の神格化にはよくある話ではある。
 

 ちなみに田川建三は、新約聖書ギリシャ語原本を個人全訳に取り組んでいる研究者。「神を信じないクリスチャン」といわれて「異端」視され、「田川の本は読むな」と信者に警告する教会関係者も多いという。
 

 
 (マタイ、ルカの)二つの福音書は、イエスは父ヨセフを通じてダビデ王の末裔であるという系図を示しているが、それは処女降誕とは完全に矛盾する。

 「イエスのミステリー 死海文書で謎を解く」(バーバラ・スィーリング、NHK出版)


 なるほどね。


 さて、新約聖書は当時の国際語であるギリシャ語で書かれている。それではなぜカトリックではラテン語で読まれていたのか。ここの事情を田川に語ってもらう。

 ローマ帝国支配は地中海世界をほぼ真ん中で二分して、ギリシャ語世界とラテン語世界を作った。

 政治的に西ローマ帝国東ローマ帝国が分かれていくにつれて、ローマ・カトリック教会ギリシャ語の教会と絶縁していった。そして(ギリシャ語から)ラテン語に訳されたヴルガータ聖書というものをローマ教会の公認の聖書としていった。


 この既成事実を公式にカトリック教会の体制として宣言したのが、いわゆる反宗教改革の時代です。マルティン・ルターが、本来の聖書はギリシャ語だ、ラテン語聖書とはだいぶ違うのだと主張したのに対抗して、そのような宣言が行われました。ラテン語の聖書が絶対の正典になったわけです。


 それを放棄したのが、1958年に教皇ヨハネス23世が招集した第二ヴァチカン会議。この件に限らず、第二ヴァチカン会議というのは、あれはすごい。


 田川建三インタビュー「考える人・特集はじめて読む聖書」(2010年春号)所収