量子力学と絵画自立のジレンマ

 各紙書評欄紹介の6回目です。

 量子力学以前の物理学では、観察者を超えた、超越的な視点あるいは超越的な何かが仮定されてきた。例えば、相対性理論も光速を一定と仮定することで成り立っている。ところが、量子力学がもたらしたのは、そのような超越的視点がもはやないという認識である。

 著者が指摘するのは、自然科学に生じたのと類似した事柄が、ほぼ同時期に、他の領域でも見いだされるということである。

 一例をあげよう。精神分析と物理学は無縁である。が、著者によれば、フロイトの前期の仕事「トーテムとタブー」と後期の「モーゼと一神教」との関係は、同時代の相対性理論量子力学との関係と同型である、という。つまり、それらは「関係の類比」において結びつけられる。


 柄谷行人評 「量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う」(大澤真幸講談社)朝日


 専門分化が進みにつれて、「専門性」が研究者にとって「逃げ場」として機能するようになった。何にでも口を出すのはシロウトの証拠というわけだ。そのご時世にあって、大澤は「何にでも口を出す専門家」として健闘している。それは、社会学の元来の特性でもあるのだが。

 ところで、なんだか柄谷の文章が、柄谷らしくなく、なにやらフツーだ。ひょっとして、老いの兆候か。

 これまで抽象画で重要なのは色や形による純粋表現であり、美術から物語的要素をいかに分離させるかが大きなテーマとされてきた。こういう美術と文学を分離する視点に立てば、モダンアートにほとんど興味を示さず、文学的にしか美術を見ようとしなかった三島由紀夫は、まことに時代錯誤だと映るに違いない。

 しかし美術表現に物語的要素は古来つきものであったし、それは今も変わらない。物語を排除すれば美術世界は純化されるが、同時にその世界を大幅に狭めもする。

 森村泰昌評 「三島由紀夫の愛した美術」(宮下規久朗、井上隆史、新潮社)朝日1121


絵画を自立させるため絵画を物語から引き離そうとしたのが20世紀の美術史だった。しかし、森村は、絵画が自立するほど表現世界は狭くなったと指摘する。全面的には賛同しないが、当たっている面はある。

関連書籍からの引用を参考までに。

 神なき時代に、一枚の絵はどうやって一枚の絵たりうるのか。(それには)絵は絵にしかできないことをやればよい。

 (物語は)絵画の自己定義にとっては「不純」です。物語要素を排除すればするほど、一枚の絵はいっそう絵画として純度が高くなる。

 (抽象絵画は)一枚の絵における無神論の表明のようなものです。抽象絵画は、そこになにが描かれているか、なにが語られているかといった、劇的であったり物語的であったりする楽しみの対象では、ありえないのです。むしろ、抽象絵画において、一枚の絵は懸命に一枚の絵たりえようとしているだけです。


「反アート入門」(椹木野衣幻冬舎

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