佐々木中にアタル

通勤電車の3日間で、「切りとれ、あの祈る手をー<本>と<革命>をめぐる五つの夜話」(佐々木中河出書房新社)を読了した。

 確かに、この書き手の出現は、「事件」である。

 最初は、「キャラが立ちすぎ」といささか引き気味に読んでいたが、途中から著者の熱に巻き込まれてしまった。ルターの宗教改革を、あるいは12世紀のローマ法復活を、これだけ熱い思いで、現代につなげる形で、しかも、日本語で書ける人間はいないと思う。

 そして、「書く」こと、「読む」ことの人類史的意味(子供向けの読書推進運動ではなく、「人類史的」ですよ)を、哲学、思想書マニアを超えた範囲に届く声(つまり文体)で伝えることができる、非常に貴重な書き手であることも確かだと思う。

 2年前のデビュー作「夜戦と永遠」も読まねば、と八重洲ブックセンターに走ったが、売り切れ。渋谷のBook1stでようやく見つけた。この書店では、「佐々木中の推薦図書コーナー」まで設けられており、並んでいた「ワインズバーグ・オハイオ」(アンダソン)、「山躁賦」(古井由吉)も買ってしまった。


 いろいろ書きたいことはあるが、今日は、紹介がてら、著者による自己紹介的部分を引用してみる。

 突然出現したように見える人というのはひとつの共通の特徴がある。それは、「誰の手下にもならなかったし、誰も手下にしなかった」ということです。・・・高圧的な脅迫には屈しないという、誰だって身に覚えがある話でね。


 ヴァレリーが、師と仰ぎ見ていたマラルメに詩作の忠告を求めて手紙を書いたことがある。マラルメはどう返事をしたか。「唯一の真の忠告者、孤独の言うことを聞くように」と。美しい逸話ですね。私の言うことも聞くな、ということです。


 ある時に、私はさまざまなものを捨て始めたのです。美術館通いを止めました。映画を見るのを止めました。音楽活動は止めました。テレビを見るのを止めました。雑誌を読むのを止めました。スポーツ観戦も止めました。特に片意地を張っているとか依怙地になっているとか、そういうわけではない。今でも同じように生きています。


 無論、私が特権的に孤高で会ったなどとは思いません。自分だけが醒めていると思ったことはありません。実際、自分だけが醒めていると思っていること以上に、凡庸でみにくいことが他にあるでしょうか。


 自らの選択とはいえ、情報を遮断し、情報の持ち合わせがないということは、いまの時代では愚かに見えるということと同じです。しかし、私は愚かさを選んだ。愚かに見える、ということよりも辛いことがある。自分が本当に正しいかどうかわからなくなる。情報の言う通りに振る舞っていれば、この問いを避けることができる。だからひとは情報を集め、まず何より情報通になろうとするのです。しかも情報を見下す振りをするためにね。私は嫌でした。


 これは全然恰好良くないのです。単にものを知らない馬鹿で、いつもだらしなく笑いながらくったくなく、ねえねえそれって何、それって誰、と人に聞く変な奴に成り果てたということに過ぎないわけですから。しかし、私はそれを選んだ。

 
このあたりの「都会内隠遁による情報社会批判」は賛同するものの、新しくはない。しかも、語り口調の文体が、「なんだかちょっと、この人、大丈夫かいな」という感じもありました。


 私が大学に入学した当初は、上からの大学改革の嵐が吹き荒れていた。それに反発したということもあるかもしれない。部分的にはね。つまり、大学の教養学部のカリキュラムが最も貧しい意味で「批評家」を生み出すようなシステムになっていた訳です。


 たとえば火曜日にイギリス・ロマン主義の詩について発表しなくてはならない。次の日にはストローブ=ユイレの映画について発表しなくてはならない。木曜にはレヴィナスについてコメントしなくてはならない。こうした環境で何が鍛えられるか。「すべて」のものについてちょっとは気の利いた一言を差し挟むことができる技術、です。これは縮小再生産の場所であるとしか思えなかった。何かとてもみな嬉々として衰弱しているように見えた。


(「すべて」について「すべて」を知っていると脊髄反射的に言えること)によってメタレヴェルに立ち、自らの優位性を示そうとすること。これが思想や批評と呼ばれていたし、今でも呼ばれている。これはとても奇妙なことです。思想や批評という狭いサークルから一歩外に出れば、そうした全知にして万能に近い自我を追い求めたいなどと言う幻想を、誰一人持ってはいないのですから。私の友人だった絵描きたちは、ダンサーたちは、ギタリストたちは、シンガーたちラッパーたちは、誰もそんなことを考えてはいなかった。誰も。


 ここの違和感もよくわかります。「嬉々として衰弱」は的を得ていると思います。ちなみに著者の大学は東京大学なので、ここでいう大学改革は駒場教養学部でのことでしょう。ただ、まだここまでは、よくある違和感でしょう。ただ、「へえ、ラッパーの友だちがいるんだ」とは思いました。


 ジル・ドゥルーズの力強い言葉がありますね。「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ」と。ハイデガーも、「情報」とは「命令」という意味だと入っている。そうです。皆、命令を聞き逃していないかという恐怖に突き動かされているのです。

 情報を集めるということは、命令を集めるということです。

 「情報は命令である」。イカシタ文句です。ハイデガーの原典にあたりたくなります。ここらへんから、中(あたる)節が徐々に出てきますが、続きは、また次回。