芸がなくてすみません。書評欄シリーズ5回目です。
本書の価値は、「もっともバランスのとれ、充実した毛沢東伝」だという点にある。
著者はアジア地域を舞台に活躍したBBCのジャーナリストだった。「ポル・ポト」(邦訳08年)も誠実な評伝だという。
これまで出た詳細な毛沢東伝は二つある。中国の公式党史で一番権威がある金冲及の「毛沢東伝」、およびユン・チアンとジョン・ハリディの「マオ」である。前者は毛沢東礼賛に終始しており、とても客観的とは言えないし、後者は「毛沢東は生まれたときから悪いやつ」で、これもまたとても危うい。膨大な情報量と誠実な資料解読の結果、描き出された巨人・毛沢東は、実はある意味で普通の人だった。
20世紀は「精神分析の世紀」だった。いまや精神分析は、効果の疑わしい過去の治療法として、共産主義よりは緩慢な死を迎えつつある。
精神分析は二度死ぬ。一度目は治療の技法として、二度目は批評理論として。心理学者ハンス・アイゼンクらの手によって、一度目の死は確認された。問題は二度目のほうだ。思想や批評理論における精神分析の影響は、いまだきわめて大きい。
(後者では)フロイトが“発明”した<死の欲動>こそが諸悪の根なのだ。
フロイトは、そのもっとも思弁的な論文「快感原則の彼岸」において、孫の遊びに注目する。糸巻きを投げては引き戻す遊びを、母親の不在の苦痛をあえて再演する行為と考え、そこに自己破壊衝動、すなわち<死の欲動>を見いだす。
著者はこの概念がすでに過去の遺物となったヘッケルの発生理論やラマルクの進化論から決定的な影響を受けていることを厳密に論証してみせる。次いで、この“トンデモ”な概念が、精神分析はもとより思想界にどれほど深甚な影響をもたらしたかが徹底的に検証される。このくだりだけでも本書の資料的価値はきわめて高い。
斎藤環氏の書評は、書評としての独立感あり。下記の書評もなかなか示唆に富んでいた。
小説すら文体を失いつつある昨今、この著者の確固たる文体は際立っている。そこには反復と回帰が、躍動する挑発が、厳粛な切断とシリアスな笑いがある。
前作(「夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル」以文社)にひきつづき、本所の中核に据えられるのは、ドグマ人類学を提唱するピエール・ルジャンドルの理論、その中でも中心的な一を占める概念の一つ「中世解釈者革命」だ。
簡単に言えば、6世紀に東ローマ帝国で編纂された「ローマ法大全」全50巻が11世紀末に発見され、それが精密に書き換えられて12世紀における教会法の成立に至る過程を指す。かくして教会が成立し、それは近代国家(および官僚制)の原型をもたらした。このときローマ法は翻訳され解釈され索引を付けられ、徹底的に「情報化」された。つまりこの時点で、近代世界は「初期設定」されたのだ。これを「革命」と呼ばずして何と呼ぶか。