なかなか風邪が抜けない。体はだるいが寝込むほどではない。仕事や飲酒もなんとかこなせる。それだけに長期化しているのかもしれない。
こんなときはまとまってものを考えられない。そのせいもあり、各紙書評欄の旅は9月だったり、11月だったり。
進化の専門家の間では今、激しい対立が起きている。
進化学者同士の論争だから、進化が適者生存を基本に進んだというダーウィンの理論は、どちらも否定しない。論点は、「生物の進化は、ランダムな試行錯誤なのか?それとも方向性を持って進むのか?」である。
例えば6500万年前の巨大いん石衝突で恐竜が滅びた結果、哺乳類が繁栄し、人間が出現した。では、もし大いん石が衝突していなかったら?
有名な進化学者のグールドたち「ランダム派」はいう。人間は現れていない可能性が高い。進化の方向は偶然の作用が大きく、生命の歴史のテープを巻き戻して再生すれば、全く違う結果に導くだろう。われわれ人間は偶然の結果、たまたまここにいるに過ぎない。
しかし、この本の著者は言う。進化には方向性がある。隕石落下がなかろうと、さまざまな偶然が重なろうと、人間はいずれ必ず現れたと。それがこの本の主題だ。
主な根拠は「収斂進化」という現象だ。哺乳類のオオカミと有袋類のフクロオオカミなど、全く異なる系統から非常に似た形態や機能が生まれることが進化上の収斂だ。似た環境と似た食物、生態上の必要が収斂を生む。
コンウェイ=モリスは、カンブリア紀の進化爆発で有名なバージェス動物群の発見者。彼は、バージェス動物群はランダム進化の実験場でその場限りの種を数多く生んだというグールドが唱えた説に、バージェス動物群の多くは現存する動物につながる存在だと真っ向異議を唱えた。
一方、グールドの主張は「神と科学は共存できるか?」(日経BP社)などを参照。
同じ著者の「カンブリア紀の怪物たち」(講談社現代新書)も興味深く読んだことがある。
この書評には、このほかにも書き止めたくなった箇所があった。
世界創造を説かない仏教は、自然(じねん)、すなわち自(おのずから)然(もよお)したものというのが、自然界についての仏教の基本的立場だ。
さらに、この世のことは気まぐれに過ぎないという主張は精神を蝕むとして、神を持ち出そうとする著者に対し、海部氏は、「しかし収斂進化は、神がなくとも知性が生まれることをも示すのではないか」と反論する。同意したい。
(前衛的な生け花で知られる中川幸夫の)型破りの伝記である。ぶつ切りの白菜を立てた作品、瓶詰めの花からしたたる液を和紙に吸わせるパフォーマンス。
「生け花なんて吹けば飛ぶようなものだった。それに命をかけるという凄み、そして、芸術として世界基準にまで押し上げて行った迫力には圧倒される」
早坂は高名な脚本家だが、「華日記―昭和生け花戦国史」という生け花の世界を活写した素晴らしいノンフィクション作品がある。この中でも中川の描写は凄みがあった。
生物学者福岡伸一により広く知られるようになった分子生物学の「動的平衡」という考え方は大変魅力的だ。分子的な身体は常に動いている「流れ」であり、止まっているように意識されるのは、それが刻々の動的平衡を保っている身体という。
これで呼び起こされたのが大岡信の詩「豊饒記」だった。
よくきく眼は必要だ
さらに必要なのは
からだのすべてで
はるかなものと内部の波に
同時に感応することだ
こころといふはるかなもの
まなこといふはるかなもの
舌といふ波であるもの
手足といふ波であるもの
ひとはみづから
はるかなものを載せてうごく波であり
波動するはるかなものだ
司馬遼太郎の「街道をゆく」全43巻を一気に読み通して気づいたことがあった。
「天皇の物語がないのですね。あるのは、苦労して米を作ることや技術をいかにして培うかといったこと。天皇に言及することを意識的に避けている。ところが、このシリーズが始まったのは三島の自決直後なんです」
三島が追い求めた「美しい日本の原理としての天皇」。そんな美学に対置するように、もうひとつの肯定的な日本を求めて「街道をゆく」の旅が続けられる。
「坂の上の雲」でも同様の問題意識が見られるという。
「日露戦争を天皇の戦争ではなく、国民の戦争として描いています。軍神と言われた乃木希典の偶像を破壊し、逆にリアリストの正岡子規や秋山兄弟を中心に据えました」