各紙書評から(3)

書評欄の散歩も10月にさかのぼってみました。

 以前に井上ひさしさんに、こう言われた。つらいことや哀しいことは、普通に生きていれば体験できる。だから人間がんばって作らなきゃいけないのはユーモアなんだ、と。

 伊坂幸太郎インタビュー 産経1003

 うっとりするほど、恐ろしい。


恒川光太郎の作品を読み終わると、自分の暮らす現実にうまく馴染めなくなるような、心もとない気分に襲われる。異界に足を踏み入れてしまったという思いから、どうしても抜け出せないのだ。

 三辺律子評 「竜が最後に帰る場所」(恒川光太郎講談社

 詩人アントン・アルトーが残した日記の1節に「生きるとは、複数の問いを燃やすことだ」という名言があるが、この本はそれを具現化していた。

 樋口毅宏評 「僕のなかの壊れていない部分」(白石一文光文社文庫

 このところ、生きている日本人作家の小説をほとんど読まなくなった。上記の三人も未読の作家たちだ。特に白石氏の作品は気になった。

 自然科学は19世紀からはじまった「新しい学問」であり、Scientistという英語は1834年にはじめて登場したという。

科学は、研究者の自発的興味と発想にもとづく無目的研究であるのに対し、技術は、建築、土木、機械のように、目的実現のためのものであり、西欧では、アカデミズムの外側で発展していた。そういえば、産業革命を推進した発明者たちは、大学とは無関係の人たちであった。

 だが明治維新以後、西欧に学んだ日本では、科学と技術の区別が希薄であり、工学部が(法学部とともに)総合大学の中心となった。総合大学の中に工学部がおかれた世界で最初の国は、日本である。

 伊東光晴評 「人間にとって科学とは何か」(村上陽一郎、新潮選書) 毎日1003

 欧米でも、核兵器や合成繊維などの開発などで、科学と技術は国家や企業の枠の中で一体化の道をたどっていった。

 大相撲はここ数年、まるでかつて美しかった大相撲が腐ってしまったかのようなくさされ方をしている。では私たちは「ほんとうに美しい大相撲」なるものを知っているのか?

 そもそも神事として最重要なはずの四本柱をテレビ中継のために切り捨てたことからして、曲げがたい歴史の源があるとは思えない。そんなテキトーな格闘興行を、私たちは摩訶不思議な風物詩として愛でてきたんじゃないか。

 相撲の始まりと通常言われるのは「古事記」だが、文献として「相撲」の文字を最初に記した「日本書紀」によれば、雄略天皇は木工名人に失敗させるために、宮仕えの女性にふんどしをつけさせ、相撲をとらせた。最古の相撲取りは女性だったのだ。

 相撲が国技と通称されるようになったのは、明治42年の常設館完成時の案内状に「角力(すもう)は日本の国技」とたまたま書かれたからである(国の決定ではない)。当時の新聞は、「裸一貫で暢気な商売」、「八百長に次ぐ八百長を以てしている」と書きたてた。

 相撲はかくのごとく社会事情や放送事情に揺られ、融通無碍に生き延びてきた呑気な伝統なのである。だからこそ面白いのだ。
 我こそは相撲本来の伝統を知っている、と語気を荒げる半可通が増えて嫌な時代になったと眉をひそめる好角家にこそ、お薦めの一冊である。

松原隆一郎評 「おすもうさん」(高橋秀美、草思社)毎日1003

 さすが格闘家の松原トーダイ教授、気合がはいった書評だ。飲み屋で主導権を握るための頼もしい武器になる本かもしれない。
「発明品としての伝統」、すもうのほかにもいろいろありますな。

※おまけの写真は撮りたてのスカイツリーです。