三島由紀夫vs「凡庸な死」

 三島由紀夫の自決から40年がすぎた。

 あの日、教室でどこからともなく「三島切腹」の情報が流れた。ちょうど「金閣寺」を読んでいたこともあり、ショックだった。家に帰ると、どのテレビ局も特番をやっていた。
 それからしばらくマスコミは三島一色だった。「三島の親友」を自称する輩がたくさん登場、「私だけは知っていた」風の告白が週刊誌をにぎわし、新聞の社会面には各地での後追い自殺のニュースが報じられた。

 社会的動乱の時代、しかも感じやすい年代で遭遇した「有名作家の割腹自殺」に大きな衝撃を受けた。週刊誌の「三島特集号」を何冊も買い込んだ。ただ同時に、三島の「演劇的な死」への過大な意味付けに反発も感じた。

 毎日、何千、何万という人たちが、生きたいと願いながら苦痛の末に病院のベッドで息を引き取り、あるいは路上で車にはねられ、死んでいく現実がある。三島の自決に比べれば、「無名で凡庸な死」かもしれない。しかし、それぞれの「凡庸な死」は、それぞれにとっての「絶対的な死」ではないのか。


 さて、三島が死の直前に自衛隊駐屯地で何を演説したのか。演説内容をみてみる。

 http://www.geocities.jp/kyoketu/61051.html


 これが「言葉の達人」と呼ばれた三島の言葉か、と疑うほど、論理的でもないし、レトリックとしての冴えも感じない。アジテーションとしての説得力もない。

 たとえば治安出動に反発を感じなかった点を、自衛隊への失望の大きな理由としているが、治安維持は元来、警察の業務であり、国防を本来の任務とする自衛隊にとって、治安出動はあくまでも補完的なものである。治安出動に出番がないから嘆くのが、本来の軍隊なのか。

 三島が、ここにこだわるのは、「自衛隊によるクーデター」という、社会的騒乱の当時にあっても現実的可能性がほとんどないシナリオに三島が期待していたからだ。このシナリオは、当時の自衛隊幹部によって下記のように記されている。

 十月二十一日、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」会員が身を挺してデモ隊を排除し、私の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、戒厳令的状態下で首都の治安を回復する。

 万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する。このとき三島ら十名はデモ隊殺傷の責を負い、鞘を払って日本刀をかざし、自害切腹に及ぶ。「反革命宣言」に書かれているように、「あとに続く者あるを信じ」て、自らの死を布石とするのである。

 三島「楯の会」の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを成功させた自衛隊は、憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。

(山本舜勝『自衛隊の「影の部隊」』講談社

 40年後、酔っ払った市川海老蔵が酔っ払いに殴られたニュースを、NHKが九時のニュース番組で大きく報じている。その一方で、「無名で凡庸な死」は40年前と同じように、そこかしこにある。