大政奉還、もっと複雑ぜよ

 NHKの「龍馬伝」も残すはあと一回。8月以降、史実を無視してのマンガ的な龍馬英雄史観が目に余る。「だって、テレビだもん」と言われればそれまで。
  
 スタート当初は、若手タレントのかくし芸大会に堕した最近の大河ドラマの流れを断ち切って、「個人と歴史」の絡みあいに正面から挑戦してくれるかと思ったが、やはり「だって、テレビだもん」には勝てなかったか。ただ岩崎弥太郎を最後までトリックスターに徹しさせたのは、NHKでしかできない壮挙だった。

 昨日の「大政奉還」もなんだか龍馬ひとりでやったような印象を受けた。そんなばかな。

 確かに山内容堂が幕府に大政奉還の建白書を出すにあたって坂本龍馬の働きかけがあったのは事実だ。しかし、この建白書が後藤象二郎を介して幕閣に提出されたのが慶応三年(1867年)十月三日。そのわずか十一日後の十月十四日に将軍慶喜大政奉還を上奏している。こんな重大な決断を下すには期間が短すぎないか。

大政奉還 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄6」(萩原延壽朝日文庫)には、幕府幹部がサトウに対し、「将軍はずっと以前から大政奉還をするつもりでいた」と語っていたとのサトウ日記の記述を紹介している。

 今回は、萩原の前掲書を使って、大政奉還を考えてみる。

 われわれは、「大政奉還=徳川支配の終焉」と思っているが、当時の受け取り方はすべてがそうではなかった。


 大政奉還から五日後、老中兼外国事務総裁、小笠原長行は英国公使パークスに大政奉還をこう説明している。

 最近まで大君(将軍)は、ひとりで日本を統治する任に当たってきたが、諸外国との交際が開始されて以来、行政の仕事がいちじるしく増大し、且つきわめて複雑なものになってきたので、現在の体制を補足し、諸大名と御門(天皇)とを統治に参画させる必要を感じるようになった。そこで大君は、決定を下す権利は自分の手に留保しつつ、そして、この決定は御門の承認を得ることを条件にしつつ、いっさいの重要な問題について諸大名の意見を徴することを計画している。

大政奉還 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄6」(萩原延壽朝日文庫


 お殿様を議員にしての徳川立憲内閣制といえる構想だ。少なくとも慶喜は権力を放棄したと思っていない。


 パークスはサトウに命じて京都周辺で直接情報収集にあたらせ、大政奉還から一か月以上経過した十一月二十七日付けの英国外相への報告でも、慶喜が新しい中央政府で指導的な地位を占めるとの見通しを述べている。

 大君は自発的に最高指導権を御門に返還し、御門は架空の元首であることをやめて、諸権力を再び掌握した。しかし、最高権力は絶対的な形式で行使されるのではなく、新しい政治体制の細目を決めていくうえで、今後も大君は指導的な地位を占めるであろう。


 一種のクーデターである十二月の王政復古が起るまで、権力の行方はまだ不透明だった。かつて、別のブログで「徳川時代が続き、リベラルなサムライ議院内閣制で日本の近代化がなされたかも」とのイフ話を書いたことがある。


 http://blogs.yahoo.co.jp/soko821/5983194.html


 最後に小生が従来から夢想しているのは、「明治維新でもし京都が首都に返り咲いていたら、その後の日本はどうなっていたか」という「イフ」だ。京都弁が標準語になり、大阪、神戸が首都圏を形成する。どんな近代日本ができあがったのか、想像するだけでもわくわくしてくる。これがまんざら荒唐無稽ではなかったことを知った。
 
パークスは1867年11月28日付けの書簡にこう記している。

 京都が政府の所在地になる可能性がある。事実、江戸はその機能を失っている。この美しい町(江戸)から、かくも急速に政府の所在地としての輝きが消えてゆくのを目撃するのは、まことにさびしい。来年の初頭には、住居を大阪に移す必要が生じるかもしれない。

 毎回繰り返される龍馬の対外危機感については、かつて書いたことがある。

http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20100804/1280911327