「暴力装置」の続き

暴力装置」なる言葉が久々に脚光を浴びている。せっかくの機会などで、もう少しいじってみたい。

 広辞苑によると、「暴力」とは「無法な力」

ウェーバーの国家の定義を日本語に訳すと、「合法化された暴力の独占」

→となれば、「国家」=「合法化された無法な力の独占」となる

→「無法な力」が合法化されたら、無法でなくなる。となれば、「暴力」とは言えなくなり、ウェーバーの定義が成立しないことになる

 つまり、広辞苑のように、日本語の「暴力」の意味に、無法・違法性が含まれているとすると、「合法化された暴力」との表現が矛盾をきたすことになる。原文のドイツ語のGewaltにどの程度、「違法性」が含まれているのか、勉強不足で知らないが、推察するに、Gewaltmonopol des Staates のGewaltは、無法の含意はなく、「武力を背景にした物理的強制力」といった意味で使われているように思われる。


 だとすれば、もともとウエーバーのGewaltの訳語として「暴力」をあてること自体が間違っていたことになる。

 ただ、ウェーバー社会学を日本語で論ずる場合は、「暴力」を価値中立的に解釈するとの学問的合意ができているので支障はない。
 一方で、一般社会(シャバ)では「暴力」は無法の意味を含むので、「自衛隊暴力装置」と言われれば「自衛隊暴力団」に聞こえてします。
 
 日本語の「暴力」をめぐるアカデミズムとシャバとの解釈のズレが、国会というシャバで表面化したということだろう。
 言うまでもないが、「暴力」を価値中立的に使うことは、某官房長官の世代ならば、気のきいた高校生でも常識であり、某氏が学問的にりっぱなことをいいすぎたと言っているわけではありません。念のため。

 ちなみに、英語での説明は、http://en.wikipedia.org/wiki/Monopoly_on_violence