ウェーバーと「暴力装置」

自衛隊暴力装置」ー遠い昔に受けた大学での社会学の講義を思い出した。
 もちろん、ウェーバーの学説紹介だ。国家の持つ「暴力性」を、レーニンの「国家と革命」ではもちろん否定的な意味に用いているが、ウェーバーは価値中立的に使っている。 

 しかし、大半の大学生がウェーバーマルクスとの区別がつかなくなっている今のご時世、しかも、大学の講義ではなく、内閣官房長官が国会答弁で、「自衛隊暴力装置」と言い切れば、騒ぎになるのは容易に想像がつく。

 この国のシャバ(もちろん国会もその一部)で、「暴力」といえば、暴力団家庭内暴力・・・否定的な意味しかない。本人も「しまった」と思ったに違いない。まさか、「えー、これは社会学の定義でして…」とやるわけにもいかず、謝ってみたものの、あの態度では、普通人には、謝っているようにはみえない。
 なんともはや。

 とりあえず、ウェーバーの「職業としての政治」(岩波文庫)の関連箇所をのぞいてみるとー

 近代国家の社会学的な定義は・・・物理的暴力の行使に着目してはじめて可能になる。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」。トロツキーは例のブレストーリトウスクでこう喝破したが、この言葉は正しい。

 国家とは、ある一定の領域内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲でしか、物理的暴力行使の権利が認められないということ、つまり、国家が暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされているということ、これは確かに現代に特有な現象である。

 継続的な行政を行おうとすれば・・・支配者はいざという時には物理的暴力を行使しなければならないが、これを実行するために必要な物材が支配者の手に掌握されていることが必要となる。

 近代国家とは、ある領域の内部で、支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功したアンシュタルトな支配団体である。


 同書の訳者である脇圭平が、文庫解説にこう書いている。

 政治はどこまでも政治であって「倫理」ではない。その意味で、政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は、百害あって一利もない。しかし一切の「政治が権力―その背後に暴力が控えているーというきわめて特殊な手段を用いて行われている事実」は、政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課すはずである。


 そして、「職業としての政治」の最後の部分を引用する。

 自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中がどんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「ベルーフ(天職)」を持つ。