通勤電車と超越論的主観性

先日、図書館でコピーした「孤独の発明」(三浦雅士、「群像」12月号所収)を朝の通勤電車内で読む。超越論的主観性からライプニッツまで、話が少しぶれるが、満員電車の立ち読みにはちょうどいい。

 木田元が「超越論的主観性」を「それ自体は世界を超越していながら、世界の存在の可能性を基礎づける主観としての機能」であると説明している。人間はなぜ、たんにひとつの主観性としてあるだけではなく、超越論的主観性としてもあるのかという問いと、人間はなぜ孤独なのか、しかもそのうえ、なぜ幽霊とともにあるのか、という問いは繋がっている。

 前半は理解できるが、後半で突然出てくる「幽霊」って?
ただこの連載は12回目なので、これまでに「幽霊」の説明は終わっているのだろう。

 この後、デカルトの方法的懐疑とフッサール現象学的還元との類似が説かれ、木田の「反哲学入門」からの引用が続く。

 デカルトの考えでは、肉体から実在的に区別されうる純粋な精神の洞察するものだけが自然の真の姿であり、それは幾何学的に規定可能な空間的延長にすぎない物体と、きわめて機械的におこなわれるその物体の運動だけからなっていて、そこには数学的に処理できないような生命だの質だのというものは一切含まれていない。


 タマシイ(純粋な精神)が相手にするのは、どろどろした人間の感情ではなく、非人間的な純粋な数学的世界。これは面白い。確かに、「数学的自然研究の存在論的基礎づけ」ではある。


 一番関心を持ったのは、カントの「視霊者の夢」の紹介だった。これは小生のカント観に修正を迫るものだった。ただ、引用に少し分量が必要なので、次回にまわすことにします。