塚本邦雄、反解説的解説の魅力

縊死もよし 花束で打つ 友の肩
              小宮山 遠

   「百句燦燦―現代俳諧頌」(塚本邦雄講談社文芸文庫


反リアリズムの鬼才、塚本邦雄による現代短歌の解説本。現実を疑うことを知らない「現実信仰」に囲まれ愛想がつきた時には、塚本節は余計にしみてくる。

この句の解説に塚本は、こう書いている。

(塚本は、旧仮名づかひ論者だが、パソコンで書き写すには面倒なので、現代仮名遣いでの引用になる。許されたし)

 元来、定型短詩に意味を求めるのは無いものねだりに類する。花鳥諷詠真骨頂漢などと呼ばれたら羞恥の余り舌を噛もうという一片耿耿の志の強者が、俳諧と死とロマンの三位一体をもくろみ、三すくみの立ち往生寸前にあやうく成立した好例のひとつに掲出の句がある。

???これ、解説なんすか?そうなんです。これが解説ってもんです。
解説を拒絶する解説は、さらに続く。

ここでは死は最終的な救済として未来に預けられ、幸福の実体は人の肩を打つ道具程度に扱われる。生の価値は意識的に貶められ、苦悩や煩悶はノンセンスな深刻趣味として風刺されるのだ。

自身に向けた刃と知りつつ、他から向けられるよりはと、(縊死を)弱者最後の権利保留を自祝するのだ。彼ら、すなわちわれらにとって花束とは空しい大義名分、他人の栄光に賭けて敗れた不可視の餞(はなむけ)ではなかったか。


「不可視の餞」か…シビレル。