エドワード・W・サイードにはある時期までみずからを、心ならずも反英闘争に関わることになってしまった若き日のスウィフトに仮託していたところがあった。最晩年にはそれが、すこしずつフロイトへ移っていった。
この高名な精神分析家は、絶望的な癌を患いつつロンドンに亡命し、周囲の批判にもめげず、ユダヤ教の始祖たるモーゼが実はユダヤ人ではなかったという書物を執筆した。サイードもまた、最後にモーゼを論じた。フロイトがなぜナチスのユダヤ人迫害のさなかにあって、ユダヤ民族の「始まり」という神聖な観念の切り崩しに向かわねばならなかったかを思考のうえで追体験する作業が、結果的に遺著となった。
起源という観念がもつ神話的崇高さをつねに相対化してゆくという、処女評論集以来の彼の姿勢が、ここでも遺憾なく発揮されている。
明治維新の神話化が戦後何回目かの進行している。「起源の相対化」は、嫌われようとも必要な作業である。
これとはかなり次元が異なるが、フロイトとサイードが最晩年に「起源問題」を論じていたことは興味深い。
ここで指摘されているフロイトの本は「モーセと一神教」だろう。サイードの最後の著作は知らないが、サイード本は何冊か積んである。きちんと読んでみたい。
フロイトの著作については、松岡正剛の「千冊」で紹介されいたので、参考まで。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0895.html