異国はほんまに侵略者じゃったんか

 「薩摩じゃ、長州じゃと仲間内でケンカしてる場合じゃないぜよ。日本人として一つにならんと、異国に侵略されてしまうぞ」

 最近の「龍馬伝」では、福山龍馬が毎回、同じセリフをどなっている。国民の大多数のみなさまには悪いけれど、天邪鬼の当方としては、ちょっと食傷気味だ。歴史は、角度を変えるといろいろな見方ができる。そこが面白さでもある。当時、本当に外国は日本を侵略しようとしていたのか?

 幕末期の外国侵略説に異を唱える記述を見つけた。

 1862年8月の生麦事件薩摩藩士にイギリス商人が殺害されたとき、たまたま横浜にイギリス軍艦三隻が入港しており、外国商人の集会で即時報復の声がでる。
 しかし、イギリス代理公使ニールは「日本と開戦することに等しい」と拒否し、海軍のキューパー提督にいたっては、問題に関与することすら断った。イギリス外交部は日本に対して慎重であったし、香港を本部とする極東のイギリス海軍は外交部以上に慎重であった。

 「幕末・維新〜シリーズ日本近現代史①」(井上勝生、岩波新書


井上氏、いわく


 幕末日本の「植民地化の危機」の程度をどのように評価するについては長い論争がある。従来の論争では、イギリス海軍と外交部の意向が十分に解明されていなかったので、対外的危機も過大に評価されてきた。


 その理由として

 イギリス東アジア艦隊司令長官ホープは、日本の開港場が中立港として利用可能であれば、経費も防衛費も要らないのであり、「日本の領域のどんな一部の一時的占領でさえ」得策でない、という見解であった。イギリス海軍は中国の開港場を占領したために、経費と防衛費負担に苦しんでいた。

 1863年当時は、長州藩の側が外国艦船砲撃(米国小型商船などを標的)を仕掛けていたのであり、薩摩藩では、イギリスとの講和の準備がすすんでいた時期である。破約攘夷による戦争の危機はあったが、危機は日本の側が呼び込んだものである。郷土防衛の武力蜂起を要請する、具体的な軍事的侵略の危機、「外夷襲来」が迫っていたとはとてもいえない。
 現実に切迫していない体外的危機を誇大に強調する手法は、国内の武力専制支配の強化につながるのが常である。


 当時、横浜に設けられた日本人用の商人街には関東周辺から中小の商人が殺到して、貿易開始前に予定地は満杯になったという。井上氏は、実際に日本植民地化の危険を防いだのは、大言壮語の志士たちではなく、こうした商人たちだと指摘する。江戸期の成熟した商業経済こそが、「占領なき開国」の真の立役者だというわけだ。

 地域の民衆には、はるか横浜の生糸貿易への参加をめざし、開国という新しい状況を「実に幸いを得」(篠原忠右衛門)と受け入れる在地商人の動向などが広範にみられた。

彼らの背後には、共同出荷で横浜生糸売り込みを支える地域の民衆(豪農豪商を含めた)の活発な経済活動があった。彼らこそが、開国をゆっくり定着させ、外国商人の侵入を断念させ、日本の民族的独立の広大な基盤をつくり、日本の植民地化の危機を防いだのである。


 大志ある偉人なき私益集団による大偉業。