死の不可知性から逃げない

本日は恥ずかしながら、風船子の生誕記念日。しかし、この年になると、「誕生日、冥土の旅の一里塚」といった心境だ。つまり、「誕生と死」はワンセット。ということで、本日は、小生が深く共感した「あの世」論を紹介してみたい。

 出典は、「他界からのまなざし」(古東哲明、講談社選書メチエ)。

 他界観の根本メッセージはただひとつ、「死の死」。つまり、「死んでも死なない」、「死後も生きている」。場合によっては、死んでもまたこの世に戻ってくる。
 
「life after life」、「 Next World 」を構想することで、死の過酷な事実を抹消し、滅びや、生の事実の唯一一回性を否認する。つまり、死をなきものとする思想。死にあらがう思想回路。それが他界観の基本的な思想構造である。

 ポイントは、死という過酷な現実が喚起してしまう滅びや空虚への不安や恐怖が、他界観という「死の死の物語」(死をなきものとする思想)ににじり寄っているという一点にかかっている。

 しかし、死をなきものとしてしまえば、そもそも死ぬこと(他界すること)が成立しない。<死後の永生>を想いえがく起因になった<死への不安や恐怖>の、そのさらなる前提である死や滅びの事実がかき消されてしまう。他界観は、その<願望=死の死>を実現することとひきかえに、その<成立の前提=死・滅び>を否定してしまうわけだ。


 要するに、他界論は「死からの逃走」であり、かつ、「前提となるべき死」を消すので厳密に言えば「他界」は成立せず、論理的に破綻しているという指摘。

 このほかにも、古東先生は、いろいろと「使えるセリフ」を教えてくれる。
 

 「他界観」とは、

=死や死後をこの世の生存圏にひきいれ溶かしこむ文化装置

=死を甘くみている可能性がじゅうぶんにある。

=唯一一回性という過酷な事実を無化していく治癒装置

=死をなじみのものとして回収する「飼い慣らされた死(死の生化)」(アリエス

 他界観とは、その成り立ちのはじめから、根本的な過誤を犯すことで可能になるような根本幻想ということになる。それらはいずれもゼロ(とりつくしまもなく異他的で、この世との連続性も類縁性も断ち切った根本的なわからなさ・不可解)でしかない位相(死や死後)を可知化(表象化・イメージ化・概念化)することを、ごく当然の前提として成り立つからである。

 つまり、そもそもその光景を想い描いたり、あるいは抹消したり、治癒装置で宥めたりすることが原理的に不可能な異貌域が、死や死後の世界であるが、その死や死後の不可解さ・根本的なわからなさを、他界観は最初から無視し、無視していることさえ無視してしまう二重忘却を、その成立の前提にしているということである。

 要するに、「この世」から「あの世」の存在を検証するのは原理的に不可能であり、ジタバタせず「死後のわからなさ」を受け入れることが重要という主張。「わからないもの」を「わかったふり」するのはあかんというわけだ。

 確かに、生きている時は「わからないこと」を何とも思っていない人たちが、死ぬとなると途端に「わからなさ」に怯えて、「既存宗教が作った物語」にしがみついてしまう数多くの前例をみると、「あれだけは避けたい」と思う。しかし、理屈はよくわかるが、いざ自分のことになったら、どうなるか。こればっかりは、直面しないとなんとも言えない。

ともあれ、「死」の問題は、「わからなさ」にどう耐えるかという問題でもある。