神も結局、人間ではないのか

「神は結局、人間ではないのか」。既成宗教に対する批判の基本である。

柄谷は、「超越的他者」として共同体の外部にあると見えるものも、結局、内部に属していると主張し、宗教批判を展開する。文献は、「探究Ⅱ」(柄谷行人講談社学術文庫)。

 「他者」とは、言語ゲームを共有しない者のことである。規則がされる共同体の内部では、私と他者は対称的な関係にあり、交換は自己対話(モノローグ)でしかない。

「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならない。規則が共有されているならば、それは共同体である。
 (「他者」概念についても注意が必要)人類学者あるいは民俗学者も、共同体の外部にある他者(異者)について語っている。しかし、そのような異者は、共同体の同一性・反復のために要求される存在であり、共同体の装置の内部にある。

 つまり…

共同体の外部と見えるものが、それ自体、共同体の構造に属しているのである。


 その例のひとつが「天才」。

 世の中から無視され排除されなかったような天才はない、というのがロマン派的な「天才」の神話である。しかし、どんなに孤立していようと、「天才」はやがて共同体に受け入れられる。シャーマン、英雄、天才といったものは、共同体にとって「異者」である。しかし、彼らはそのことによって、共同体の目的を先取りし、共同体を活性化する。いいかえれば、彼らは「内在的」なのだ。どんなに共同体との対立があろうと、どんなに彼らが“超越的”にみえようと、彼らは共同体の内部にある。

 そして、神も「内部」に属する。

 フォイエルバッハが、神は人間(個々人)の類的本質の“自己疎外”であるというとき、神と人間の本来的な同一性が前提されている。

 スピノザは、神は超越的ではなく内在的であるという。スピノザがいうのは、絶対的・超越的他者への信仰というものが、概して自己の絶対化・超越化にほかならないということである。 

 以上は、前掲書の「第三部 世界宗教をめぐって」の「第一章 内在性と超越性」から。柄谷がこれを書いたのは、もう20年以上も前だ。決めゼリフの鮮やかさに、40代の勢いが感じられる。