ハイデガーで「世間離れ」は可能か?

 このところ、朝から晩までカイシャという小シャカイに首までつかっている。仕事以外で目を通す書籍も、仕事関連が続いた。ちょっとうんざりしてきたので、久々にハイデガーでも読んで、気分を変えたい。 

存在と時間」で何度読んでも書きうつしたくなる箇所のひとつが、以下のところ。

第一部「現存在を時間性にむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」の
第一編「現存在の準備的な基礎分析」の
第四章「共同存在と自己存在としての世界=内=存在、世間」の
第二七節「日常的自己存在と世間」。

いやあ、なんちゅうタイトル。これを書きうつすだけでカイシャが脳みそのなかで急速に遠ざかっていく。効き目抜群。


 (相互存在である人間は)他者との較差への気遣いで落ち着かずにいる。それは、疎隔という性格を備えている。このあり方は、日常的な現存在(人間の意味)自身には目立たずにいるが、実はそれだけ執拗に根深く働いている。

これは、現存在は日常的相互存在としては、ほかの人々の司令下にあるということを意味する。ほかの人々の思惑が、現存在のさまざまな日常的存在様式を操っている。そのさい、「ほかの人びと」とは、特定のほかの人びとのことではない。むしろ反対に、どの他人でもそれを代表することができる。

…だれでもみな、自分もほかの人びとに加わっていて、その支配力を強化している。その誰かは、この人でもあの人でもなく、すべての人びとの総和でもない。その「誰か」は、特にだれということもできない中性的なもの、世間(das Man)である。


「ほかの人びと」って、だれ?

 このような相互存在は、各自の現存在を「ほかの人びと」のありかたのなかへすっかり融けこますので、「ほかの人びと」は彼らの相違や明確さの点でいよいよ消滅してしまう。この目立たなさと突きとめにくさのなかで、世間というものがその本格的な独裁権を発揮する。

 われわれは、ひと(注:原文に傍点あり)もするような享楽や娯楽を求め、ひともするように文学や芸術を読み、鑑賞し、批評し、そしてまた、ひともするように「大衆」から身をひき、ひとが慨嘆するものをやはり慨嘆している。この「ひと」−それは特定の人ではなく、総計という意味ではないが、みなの人であり、世間である。この世間が、日常性のあり方に指令を与えているのである。


 自分は「ほかのひと」に支配されており、自分も「ほかのひと」として他者を支配するひとりになっている。嫌気がさしてそこから逃げ出そうとしても、嫌気自体も「世間」の一部であり、「ほかのひと」の司令下にいることには変わりがない。「大衆社会」には逃げ場がない。

 こうした「世間」は、すべて平均的なものを是認し好評するが、そうでないものを非として歓迎を拒む。

 あらゆる独創が、一夜のうちにつとに周知のこととして、当たりさわりのないものにされる。苦闘の結果、勝ち得られたものも、みな手ごろなものになる。いかなる秘儀も、その力を失う。


 ニーチェを想起する大衆批判のにおいが立ち上ってくる。

 こうした世間のなかで、われわれはどういう位置にいるのか。
 ハイデガーは、こう言い切る。

 だれでもが他人でもあり、だれひとりとして自己自身ではない。
 Everyone is the other, and no one is himself.


 いかした決めゼリフだ。

 シャカイからの逃避の期待は消えたが、少なくともカイシャ気分は消えた。

※使用テキストは、細谷貞雄訳のちくま学芸文庫。英訳は、John Macquarrie & Edward Robinson の「BEING AND TIME」(Blackwell)