続「論語と朱子学」講義メモ

論語朱子学」講義メモ

 おなじみの「論語集注」読書会の講義メモです。

「吾、十有五にして学に志す、三十にして立つ…」

 有名な箇所だが、「五十にして天命を知る。六十にして耳したがう。七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)をこえず」は、「50歳で自分の限界を知り、60歳になって人のいいなりになり、70歳になったら欲望がしぼみ、やりたいことをやっても大したことができなくなった」とも解釈できる。しかし、朱子にとって、孔子は「完璧な聖人」なので肯定的解釈を行った。
ここで朱子にとっての問題は、孔子が「生知安行(生まれながらにしてすべてを知り、苦労なく安んじて行う能力を持つ)」あるなら、なぜ段階的に学習する必要があったのかとの問いであった。

 もちろん朱子孔子の完全性を疑うことはしない。
朱子は、先達の程子の解釈を引用しながら、「学ぼうとする一般人に対し、段階を踏んで学ぶ必要性を説くためであった」とする。また、「孔子は客観的には生まれながらにして完全な聖人であったが、孔子自身の自己意識としては足らないものがあると思い、生涯、努力を続けた」という説明で折り合いをつけている。

 うーん、ちょっと苦しい解釈。「努力すればだれもが聖人になる可能性がある」というのが儒教の中心教説ならば、孔子を「努力の人」にしてもかまわない気がするが。孔子自身も、たしか別のところで「我は生まれながらにして之を知る者に非ず。古を好み、敏にして以って之を求めたる者なり」と自己を語っている。

 強制ではなく、自主的に従わせるのが、儒教式のソフトパワー。朝鮮、日本も、強制されたわけでもないのに、儒教や漢字を受け入れた。むしろ、モンゴル、チベットは、漢文化導入に抵抗した。現在、朝貢の歴史を持つ朝鮮、日本が「外国」になり、中国に対して「外国意識」が強かったチベット、モンゴル(内)が「中国国内」になっているのは、歴史の皮肉。

 「悪いことをすれば死んでからバツを受けるので、生きているうちに良いことをしなければ」というのは、損得勘定に基づいたものなので、儒教的にはこれは低級。「悪をなすことは、人として恥ずかしい」というのが儒教的な倫理の基本だ。「人は禽獣ではない。人たることの誇りこそ重要」との基本認識がある。これが、人間を超えた超越的な神を想定しなくても、人間社会の道徳を成立させる基盤となる。

 王陽明による陽明学は、「人の本性は万人に共通。孔子も人であり、私も人である。それならば私もあなたも孔子になれる」と説く。王陽明は人々に対し、「あなた方も、孔子として行動すればよい。今、ただちに孔子として生きろ」と説いて、熱狂的な一般からの支持を得た。

 アマチュア陽明学者はいるが、アマチュア朱子学者はいない。これは、朱子学陽明学の対比をシンボリックに物語っている。