沖縄の画一化と独自性

「沖縄幻想」(奥野修司洋泉社)の2回目。

 それにしても、いつからこんな島になったのだろう。

 東京の郊外ならどこにでもあるような(那覇の)副都心「おもろまち」を通るたびにそう思う。そんなことを言うと、「東京並みになってどこが悪い」とつい叱られてしまうが、確かにその通りだ。便利になることは悪くない。そこに住まう人の理屈として間違ってはいない。だが、それで未来の沖縄は自立できるのだろうか。

 沖縄県の経済は公共工事、基地、観光の「3K」で成り立っていると言われる。2005年の県内総生産では、農業、漁業の第一次産業は全体のわずか2%。製造業や建設業などの第二次産業が12%。このうち建設業は製造業の二倍近い。そして第三次産業は、9割を占める。

 現実問題として、今後も沖縄が基幹産業と呼べるのは、今のところ観光だけだ。
 (沖縄らしさが片鱗もない、美意識のかけらもない)「おもろまち」のような街を野放図に作り続ければ、本土の都市と変わらなくなり、沖縄の観光が水泡に帰す。

 那覇中心街の国際通りには、観光客相手の土産物屋がずらりと並んでいたが、どれもこれも画一的な商品ばかりだった。

 沖縄への移住者というと、団塊の世代のようなリタイアしたシニア世代を想像するが、じつは2000年の統計で、もっとも多いのが20歳から39歳の若い人たちで、全体の7割を占める。
 ある地元紙の調査では、若い移住者はこんなことを言っていたという。
 「本土で行き詰って逃げてきた」
 「沖縄に行けば癒されるんじゃないか」
 「自分探しのためにやってきた」
 本土でダメだったヤツが、沖縄に来て何とかなるはずないだろ。そんなに甘くはないぜ、と言ってやりたい。

 沖縄にやってくる観光客の多くは団体客である。彼らは本土のツーリストに金を払い、本土の飛行機で来島し、本土資本のホテルに泊まるから、彼らの落とすカネのほとんどは本土の企業がかっさらっていく。そのうえテーマパークをピンポイントで移動するから地元にカネが落ちない。
 北部の本部町に入館者年間300万人の「美ら海(ちゅらうみ)水族館」があるが、役場は築数十年の、今にも倒れそうな建物だ。なぜ(町に)お金がないのかというと、米軍基地がないことと、観光客がお金を落とさないからである。
 観光客は、「美ら海水族館」を見ると、次は「やんばる亜熱帯園」へと、点から点へと移動する。観光客にとって、本部町は存在しないも同然なのだ。
 本部町住民にすれば、金を落とさない観光客は排気ガスをまき散らし、ゴミを捨てていくやっかいな存在に映る。


 昨年末の沖縄旅行は普通の定期バスを利用した。鉄道がない沖縄では、公共交通機関はバスに頼るしかないが、便数が少なく、とにかく不便だった。一人一台というほど車の所有率が高い。しかも、軽自動車の多さには驚いた。一度、数えてみたら、バスの前を走る6台が全部軽自動車だった。

 何度かタクシーに乗ったが、どの運転手さんとの話も楽しかった。居酒屋で隣り合わせになった人に話しかける風で、へりくだったところもなく、かといって横柄な感じもしなかった。おしゃべりな人にありがちな押し付けがましさもなかった。不思議な自然体で、気持よく話ができた。これは大きな資産だと実感した。

本来は幅があるはずの日本を中央集権的にしかイメージできない自称「愛国者」が多い。これでは、ガイジンの「フジヤマ、ゲイシャ」と同じだ。「日本とは何か」を考えるためにも、沖縄は貴重な土地だ。

※写真は、「那覇のワンパターン土産モノが並ぶ国際通り」と「軽自動車が目立つ国道」