「夫子、温良恭倹譲、以って之を得たり」
〜「之」は夫子(孔子)が諸国の指導者から相談される機会のこと。
孔子は、温(おだやか)、良(すなお)、恭(慎み深く)、倹(節制あり)、譲(威張らず謙遜)の五徳を備えているので、各国の宰相が自然と孔子の意見を聞くようになる、との意味。
この5つが、いずれも「剛」ではなく「柔」に関連があることに注意。儒教がソフトパワーを重視している好例といえる。
このなかの「恭倹」は、「朋友相信じ、恭倹己を持し」として、明治に制定された日本の教育勅語に引用されている。
また毛沢東は、毛沢東語録のなかで、「革命は、この五徳で達成できるほど甘いものではない」と言っているという。毛沢東と儒教の関係を考えるうえでは面白いエピソードだ。
「有子曰く、礼の用は和を貴しと為す。先王の道、これを美と為す。…和を知って和すとも、礼を以って之を節せざれば、また行わるべからざるなり」
〜「和を以って貴しと為す」は聖徳太子のオリジナルかと思っていたが、論語からの引用だった。
ここでの注意は、「用」にある。これは、仏教で「ありさま」の意味で、本質である「体」の対概念になっている。そこで、「礼の用」と読むと、仏教が中国に伝来していない論語の時代と矛盾するとの意見がある。この立場からは、「礼は之れ、和を用(も)って貴しとなす」と読む。
ともあれ、朱子は「礼の用」の立場から解説している。これは、朱子がライバル視していた仏教から学んでいたことを示している。仏教をくぐってこそ、朱子学の体系性が構築できたともいえる。これは、アリストテレスを導入して中世キリスト教神学を大成させたトマス・アキナスを連想させる。
後段も面白い。和が貴いからといって厳格な礼がなければ、フニャフニャの和となり、秩序が乱れるというわけだ。朱子は、先達である程子の言を引用する。
「礼まされば、則ち、離れる。楽まされば、則ち、流れる」
〜礼で厳しく縛り付けると人心は離れるが、楽しみばかりだと緩んでしまう、というわけだ。
儒教は、「ソフト」だけでなく、バランス重視の教えでもある。
◆「義」とは
〜「義」は一般には、正義の意味を思い浮かべる。それでは、慶応義塾の「義塾」は、「正義を教える塾」の意味だったのか。
ブー。「義」には、「報酬を受け取らない」の意味がある。慶応が発足当時、福沢諭吉が塾生から授業料をとっていなかったかどうかは知らないが、「民間でカネを出し合って運営する私立学校」といった意味合いがあったのではないか。現代中国語でも「義工」というのは、ボランティアのことだ。
「義」にはまだ他に意味がある。天(自然)に対立するものとしての「義」(人工的なもの)だ。「義足」、「義兄」などがその使用例。
なるほどね。