アキノ家と修羅場

 フィリピン大統領選で、ベニグノ・アキノ氏(50)が大差で当選を決めた。父親は、暗殺されたベニグノ・アキノ上院議員。母親
は、昨年亡くなったコラソン・アキノ元大統領。もうふた昔前になるが、風船子はフィリピンに住んでいたこともあり、「息子が50歳で大統領になったか」といささか感慨深い。

 フィリピンにいたころ、母親のアキノ大統領(当時)を何度も直接「見物」した。すでに50代半ばだったが、まだ「お嬢
さん」の面影が残っていた。

 大富豪の家に生まれた彼女の少女時代の願いは「普通の主婦」だった。しかし実力政治家ベニグノ・アキノ氏との結婚で人生は一
変する。夫の暗殺で「民主化の象徴」に担ぎあげられて大統領選挙に立候補した。立候補書類の職業欄には「主婦」と書いた。
 投票後、選管はマルコス氏当選を発表したが、民衆デモと軍の反乱にも助けられて、マルコス氏は国外に追われ、主婦が大統領に就任した。

 彼女の最大の業績は、このマルコス追放劇の「主役」を務めたことだった。「殉教者の妻」の存在があればこそ、民衆は政府軍の前に立ちはだかり、国際世論は支援を寄せた。

 ただ、逆にいえば、大統領就任の時点で最大の仕事が終わっていたことを意味した。「反マルコス」だけで結びついていた左派や軍改革派は再び分裂し、任期半ばで国軍反乱が5回も発生した。この時点でだれもが短命政権を予測した。

 しかし、ただの「お嬢さん」ではなかった。「素人大統領」といわれながらも、6年の任期を全うした。
 最大の課題だった農地改革が地主層の反発で骨抜きにされるなど貧困解決に大きな成果はなく、実績に乏しかった大統領と批判される。しかし、反乱軍が「アキノ暗殺」を公言する中での政権維持は命がけの仕事であり、「民主主義の制度化」にとっても「任期まっとう」は大きな業績だった。
 1989年末の国軍反乱では、大統領府を爆撃されながらテレビに何度も登場し「反乱兵には降伏か死あるのみ」と強気の姿勢を崩さなかった。制服姿の軍幹部を後に従えて、テレビ画面に登場した厳しい表情を今でも覚えている。

 フィリピンでは庶民に敬遠されがちな優等生タイプだったが晩年まで人気は高かった。非フィリピン的な「ぶれない優等生」に、逆に民衆から信頼が寄せられたのかもしれない。

「痛みを絶対に人に見せないように懸命でした」。昨年、アキノ元大統領の死を伝えたフィリピンのマスコミで、四女が死の直前の
母親の病床での様子を語っていた。
 修羅場をくぐり抜けた頑固な「お嬢さん」として一生を終えた。

 息子は、劇的な人生を送った両親に比べれば、平穏な道のりを歩んできた。

 修羅場はこれからだ。