「シュール」の日本的誤解とは

 「シュルレアリスム」をめぐる日本的誤解について、巌谷國士が力説している。参考文献は、「シュルレアリスムとは何か」(巌谷國士ちくま学芸文庫)。講演をもとにした文章で少しくどいため、下記の文章は引用よりも要約に近い。

 「新明解国語辞典」の説明では、「シュール」とは「シュールレアリスム」の略で、「写実的な表現を否定し、作者の主観による自由な表象を超現実的に描こうとする芸術上の方針。超現実主義」なんて書いてある。日本では、このような意味での了解が成り立っているといえなくもないが、これは本来のシュルレアリスムとは、まったく正反対の意味内容なんです。
まちがいは二つ。まず「写実的な表現を否定」とあるが、たとえばダリの絵はパンならパンを20世紀でもっとも写実的に描いており、明らかに写実的である。マグリットのリンゴだって写実的であり、この定義は間違い。
次に「作者の主観による自由な表象を描く」の「主観による」の部分が間違い。
実際にはシュルレアリスムは、「オブジェ(客体)」を表に出し、主観をできるだけ排して客観に至ろうとした思想です。

 最初の間違いは納得。二つめは、具体例がないと、この段階では理解できない。
 巌谷は、名称に対する誤解から説いていく。

 日本では、「シュール・レアリスム」なんて書く人がまだ多い。もっとひどいのは「シュール・レアリズム」と前半がフランス語で後半が英語になっている。
 日本では「シュール」を「超える」、「離れる」を意味する接頭語だととらえて、「レアリスム(現実主義)を超えた(シュール)もの」となり、「現実にはあり得ない主観的な幻想世界を描くもの」となるわけです。一般に「シュールだねえ」なんていうとき、たいてい現実離れしたものについていわれます。
 しかし、シュルレアリスムは、「シュル」で切られることのない言葉です。
これは「レアリスム」に対する「シュール」ではなく、むしろ「シュルレエル」が主眼なのです。つまり、「シュルレアル(超現実)」によって立つモノの考え方、あるいはその実践ことが、シュルレアリスムなのです。だから途中で切るとすれば、「シュルレエル」と「イスム」で切るべきなんです。どうやらこれは日本だけの現象です。

 なるほど。巌谷は、さらに「超」の考察を続ける。

 フランス語の「シュル」は「超える」との意味だけではなく、「過剰」とか「強度」の意味もある。ですから「超現実」は現実の度合いが強いとの意味を含み、「強度の現実」、「現実以上の現実」との考えてもいいくらいです。日本語の「超」も同じ意味があり、「超カワイイ」というのはすごくカワイイという意味ですよね。
 つまり、「超現実」は、現実とは別の世界のことではなくて、現実に内在しているものなのです。

 このあとは重要個所なので、正確に引用します。

 「現実」という言葉をわれわれは日常的に使うことはできるけれども、その「現実」は決定的なもの、自明のものではないはずです。もともとは謎をはらむ、つかみどころのない時間空間のなかに、現実と称するものを惰性的に見つけ、それでなんとか「現実生活」をやりくりしているのが現代人でしょう。ところがそれは主観的な約束事であって、客観的な、オブジェクティフな、つまりオブジェの現実ではない。そんな日常の約束事とつきあっているうちに、なにかフワッと、見たことのない、未知の驚きを呼び起こす現実が現れたというようなときに、それを「超現実」と呼ぶべきではないのか。

 「日常的現実」を「主観的な約束事」とするのはわかるが、この反対が「客観」になるのかどうかは疑問。集合的主観を「客観」とする立場もある。ただ、日常的な現実の割れ目から別の「現実」がのぞく、との描写は理解できる。
ここまでくると、「嘔吐」(サルトル)のマロニエの場面を想起する。「意味の剥落」の意味は何か?20世紀以降の哲学と文学が試行錯誤を続けているテーマでもある。

 このあと、「自動記述」の説明に移るが、これはまたの機会に。