現象学とうつ病

 今日は、「現象学と鬱(うつ)病は相性が悪い」というお話。

 現象学フッサール以来、日常性の現実を括弧に入れて宙吊りにする、いわゆる「エポケー」ないし「現象学的還元」の操作を生命にしている。この現象学的態度が、躁鬱病者特有の対世界関係と根本的に波長が合わないのである。

 分裂病者とちがって躁鬱病者は、病前からその際立った日常的秩序や経験への依存性を特徴としている。彼らは、共同体の伝統的規範によってすでに構成ずみの日常性の経験財と(しばしば過剰に)同一化することによって、自己の存在の安定を確保している。所与の日常的現実を疑問視し、そのつど新たに自己世界を構成しなおすという創造的で未来志向的な営みは、彼らにとっては最も縁遠い、冒険的ともいえる所業なのである。

 …だから、現象学というものが、日常性のあらゆる自明性(ドクサ)を疑問に付し、その妥当性を停止して、自己や世界の絶え間ない構成の動きそのものに焦点を合わせる営みである以上、現象学は、すべてが経験的・日常的次元において強固に構成されてしまっている躁鬱病者の世界には、ほとんど手掛りを見出しえないことになるだろう。現象学とは、いわばこの上なく「非躁鬱病的」な知的営為なのである。そして…分裂病はそれ自体きわめて「現象学的」な事態だということができる。

分裂病と他者」(木村敏ちくま学芸文庫

 トイレに行く際、活字がないと寂しいので本棚から何気なく未読の文庫本を抜き出した。きわめて動物的営為の最中に拾い読みしていて、「なるほど」と思わずうなりそうになったのが上記の箇所だ。
 
 「学校に行けない悩み」、「会社に行けない悩み」…こうしたうつ病の悩みは、その裏側に「学校に行くこと」や「会社に行くこと」を、「一人前の人間としてやらねばならないこと」として無条件に前提としている。ゆえに、その前提を遂行できなくなった自分を「ダメな人間」として自責し心理的に追い込む。

 こうした前提を一種の「集団催眠」だと仮定すれば、うつ病的な悩みは逆に催眠状態からの「覚醒」ともいえる。しかし、「覚醒」が社会的に良いかというと、分裂病的な「俺が世界のご主人さま」タイプは、当然、社会と摩擦を起こし、うつ病とは違う経路で「病者」として扱われ、うつ病よりもより原理的な意味で社会から脱落する可能性もある。


 ここで、「出生の秘密」(三浦雅士)のなかの芥川論を思い出した。

 精神病者とは、押し付けられた現実を否定して自分自身の現実を構築しながらも、それを他人に認めさせることに失敗したもののことであり、神経症者とは、押し付けられた現実を、意識的には容認しながらも、無意識的には否認しているために、葛藤を抱え込んでいるもののことである

「出生の秘密」p264

 三浦は、中島敦の「狼疾記」に存在論的不安に悩む「精神病者」を見る一方、芥川を世界からシンボルしか感じられない「神経症患者」と断じる。

 つまり、中島は、言葉の虚構性が破れ世界から意味が消えてしまう瞬間の恐怖に怯えていたのに対し、芥川は、「言葉の集合」以外に世界の姿を感じることができなかった。

 「(芥川は)常識的判断に富んだインテリゲンチャにすぎなかった」(荻原朔太郎)

 →「世界という現象がみな言語の次元、象徴の次元においてのみ生起しているように感じられる、そうとしか感じられなくなる」(三浦、前掲書p270)
  
 →「シンボルのすべてがたんなるイコンに、いや、そのイコン性さえ失われてたんなる物にしか見えなくなってしまう事態の正反対、すなわち、あらゆるものがシンボルにしかみえない」(同p270)

 →「中島敦がイコンの世界に閉じ込められる恐怖におののいていたとすれば、芥川龍之介はシンボルの世界から逃れられない恐怖におののいていたのだといってもいい」

 芥川は、現象学的還元の能力を欠き、世界に社会的意味しか感知できない俗物、言いかえれば、狭義の「世界内存在」ということになろうか。

 いずれにしても、ここは存在論的立場からの社会分析にとって非常に重要なポイントを含んでいる。「分裂病と他者」の精読も含め、これからも引き続き考えていきたい