刀を持った百姓たち

 文久3年(1863年)、幕府は将軍徳川家茂の上洛警護を名目に、浪士組を結成した。このなかには、近藤勇土方歳三沖田総司といった後に新撰組の主役たちが含まれていた。脱藩した過激な尊王攘夷論者などの不平浪士の取り込みが目的とされているが、構成をみると意外にも百姓が半数以上を占めていた。

 参考文献は、「開国への道〜日本の歴史12」(平川新、小学館

 浪士組の特徴は、身分や家柄にこだわらずに入隊できたことである。
 浪士組およびその後身の新徴組をあわせると、現在、394人の名前が確認されている。上洛したメンバーは232人で素性を確認できるのは220人。このうち「武士」身分と見なすことができるのは78人(35%)で、「武士以外」、すなわち庶民の出自は142人(65%)であった。特に百姓は128人と約55%を占めている。

 前掲書「第6章 庶民剣士の時代」

 江戸末期、町人の経済力が武士を脅かしていたことは周知だが、帯刀して「武士もどき」の農民がこれほどいたとはまったく知らなかった。平川は、さらに具体例をあげる。

 当時、百姓や町人の武芸は盛んであり、幕末の争乱にも意外なほど多くの百姓身分の者たちが参加していた。
 たとえば、尊攘派水戸藩士たちが大老井伊直弼を暗殺した桜田門外の変では、襲撃者のなかに百姓1人、神主3人の計4人が「武士以外」だった。
 それから2年後、将軍家茂と和宮との結婚を進めた老中安藤信睦(信正)を襲撃した坂下門外の変では、謀議参加者25人のうち、豪農商9人、医師3人など半分以上の14人が「武士以外」だった。
 西郷隆盛が江戸の撹乱をはかるべく組織した薩摩藩邸浪士隊では百姓・町人出身者が70%を占め、鳥羽伏見の戦いの後に官軍の先方隊として組織された赤報隊でも百姓・町人の比率は56%だった。

 NHKの「龍馬伝」でも饅頭屋が勝海舟に武士として扱われているエピソードが紹介されているが、こうした分野の研究が進めば、平川が指摘するように幕末維新史のイメージは大きく変わるだろう。