論語読書会

 朱子論語集注をテキストにした「論語読書会」の2回目から、孔子、おっと違った、「講師曰く」を紹介します。
 

 儒学では、常に守るべき5つの道徳を「五常」と呼ぶ。「仁義礼智信」の五つだが、この中に「智」が入っている事に注目してほしい。現代では、「頭は悪いが道徳的には立派な人間」との言葉をよく聞くが、儒教的には成り立たない。頭がよくないと立派な人間になれないと説く、一種のエリート主義。

政治とは、徳のある人物が責任を引き受けて民を導く行為。これは必要悪ではなく、必要なもの。徳のある人は人々に慕われ、結果として指導者になる。それが「天子」。特別に優れた人が、そうでない人々に対し、「人らしさ」に目覚めさせることが政治の重要な役割であり、この意味で政治は教育に似てくる。中国では、紀元前にすでに公教育の概念が誕生していた。

天子は一人では政治ができないので、補佐役が必要。これが「臣」。りっぱな人たちは、天子に仕える臣になる。残るのはボンクラ。「公務員>民間」の不等式が成立。

天子が失敗することもあり、その時、臣は諌める必要がある。三度諌めて聞いてもらえなければ、臣は去る。子は親に対しては三度諌めて聞いてもらえなければ、号泣して従う。(礼記

朱子学の基本は、あらゆることには回答がある。しかも正解は一つだけ。

人間を横並びにして、各人間の間にある差異を「個性」として尊重する考え方は儒教にはまったくない。ルソーに「私は他のだれとも違う」との文章があるが、儒教的には「おれはロクな人間ではない」と告白しているようなもの。

孔子が天子(政治の最高指導者)になれなかったのはなぜか。
 それは、寒い夏があるように、天もときどき変なことをする。天災もある。ただ、天は、大枠として人々を生かしている。儒教的な現実主義。あるいは、エリートの挫折について自己正当化できる余地を作っているともいえる。
キリスト教では、神を全知全能だとするので、悪の存在をどう説明するかが神学上の大問題となるが、儒教では、そもそも天は全知全能ではない。

社会の混乱、天災の続発は、天子に責任がある。天子は、民の父母であり師である。小学校の学級崩壊で、責任は子供ではなく親と教師にある。これと同じ。

儒教の基本はソフトパワー重視で、暴力には否定的で、武力はあくまでも必要悪とする。「よい鉄は釘にならない。よい人間は軍人にならない」。中国の有名なことわざにも、その反軍主義が残っている。

孔子のような聖人は生まれながらに完璧な人。しかし、凡人でも、努力をすれば聖人になれる。ただし、朱子学では、勉学はあくまでも自分のためであり、手段ではない。しかし、朱子学科挙の教科書となったので、出世の手段としての学問を否定する学問を勉強して、出世をめざすという矛盾した状況が生まれた。

儒教的には中心は一つしかない。統治の中心から水面の波紋のように統治は同心円状に広がっている。中心から離れると統治が薄くなる。化外の民。
周辺は中心に隷属し、周辺は中心へは貢物を贈り、その対価として「国王」の称号をもらう。朝貢外交。日本の遣唐使も文化使節ではなく朝貢の一種だった。現代になって、日本からの中国への文化使節をときどき「現代の遣唐使」などとマスコミが表現しているが、中国からみれば「異常に謙虚な態度」とうつる。

論語は、前後の脈略がない。それだけに読み込みの可能性が大きく、時代に合わせて各種の解釈ができてきた。朱子論語を徹底的に体系的に読み込んだ。その背景には、仏教に対する対抗意識があった。しかし、「戦う相手に似てくる」との法則があるが、朱子学も、結局、仏教に似てくる。