朱子学で論語を学ぶ


 専門研究者を講師にした論語読書会に参加することになった。テキストは、朱子による論語の注解書「論語集注」。しかも、中国で発行された漢字だらけの原文でハードルは高いが、参加者のほとんどは論語素人なので、なんとかなると思いたい。

 講師は思想史の専門家であり、「ビジネスに役立つ論語」的読み方とはまったく無縁の読書会だ。

 講師は開講にあたり曰く、「論語の原テキストは残っておらず、論語のオリジナルな意味をめぐる論争は苦労の割に益がない。それよりも、朱子学は中国思想史のなかでも随一の完成度を持っており、論語を通じて朱子学とは何かを伝えていきたい」。確かに、論語なら日本人の専門家による一般向けの解説本が何冊もあり独学は可能だが、朱子学を系統的に一人で学ぶのはかなり骨が折れる。

 くたびれた中年会社員がどこまでついていけるか自信はないが、まあ、楽しみながらお勉強しよう。そういえば、論語の最初はこの文句から始まっていました。

 子曰く、学びて時に之を習う、また説(よろこ)ばしからずや。 これから、このブログにも論語についてのナマかじりの迷想記が頻繁に登場するかもしれません。お許しあれ。

 1回目で印象に残った講師の言葉を紹介しておきます。

儒教は武士道のような身分道徳ではない。対象は人類全体であり、だれでも実践できる。そこで、儒教では、人らしい生き方の根本を「道」と呼んでいる。
「道」は、だれでも通ることができる。人としての道をきちんと歩むことが大切だとされる。ただし、この道の先には天国も地獄もない。なぜならそんなものは存在しないからだ。

 ただし夫婦については性別分業を前提に互換性がなく、身分道徳的に説明している。<< >>儒教では、人為を超えたすべては「天」の働きだとする。人も「天の営み」の一部。天地人は、「天」の自己展開といえる。

儒教性善説とは、「人の本性はみな善人」という意味ではない。言語能力をはじめ、人間には社会的な能力が生まれつき備わっている。閉所恐怖症のモグラがいないように、言葉をしゃべれない人間もいない。こうした生得的に社会的能力があることを「性善」と呼んでいる。


「役割の多面体」が、儒教の人間観。きちんと自分の役割を果たしているのがよい人間とされる。