うれしい誤算「ハート・ロッカー」

 今年のアカデミー賞で6冠に輝いた米映画「ハート・ロッカー」を観た。

 ドキュメンタリータッチによる撮影は臨場感ある画面につながっていた。戦争映画にありがちな善玉悪玉の類型的演出とも無縁だった。俳優陣も説明的な演技を超えた難易度の高いパフォーマンスをみせてくれ、全体に完成度の非常に高い映画だった。

 風船子自身、かつて、カンボジアアフガニスタンパレスチナイラクバルカン半島の紛争地帯の隅っこをうろついた経験がある。戦闘のど真ん中にいたことはないが、紛争地、とくに中東の紛争地帯の雰囲気は実感としてある程度は知っている。それだけに「圧倒的なリアリティと臨場感で戦場を再現」との宣伝文句にひかれて、劇場に足を運んだ。

 「どうせアメリカの戦争映画だ。しかもアカデミー賞か。イラク戦争に疑問を感じつつも民主主義実現のためにイラクで戦うインテリの米兵。その米兵に思いを寄せる英語ペラペラのイラク人の若い娘がからみ、ドラマは進行する」…なんて予想をしていたが、これが大外れ、うれしい誤算だった。

 女性監督とは思えないホレタハレタの味付けなしのハードボイルド。類型的、説明的な演技もほとんどなく、撮影もドキュメンタリー風味で、確かに「圧倒的なリアリティ」があった。

 いくつかの角度から、この映画を評してみたい。

 主要テーマは、「現実の戦争とはなにか」だが、私には、戦争もさることながら、「現場仕事の大切さ」がテーマとして胸に響いた。主人公の爆弾処理専門家は、危険を顧みずに爆弾を次々に処理していく。しかし動機は使命感ではない。それは、危険を興奮剤にしながら好きな爆弾いじりを仕事にできる満足感に近いものだ。現場のある仕事が持つ魅力が伝わってきた。

「余計なことを考えずに、目の前にある好きな仕事に全力投球する」。一般的には仕事に臨む態度としては、まったく正しい。ただし、これは戦争だ。「好きな仕事」が人殺しに関係あるとしたら…

 爆弾処理は、「人殺しのなかの人助け」である。だれにも文句をいわれる筋合いはない。ただ、イラク戦争の場合、なぜ爆弾が仕掛けられているのか。答えはひとつ。米軍による軍事占領に対するイラク人の武装闘争だ。市場に仕掛けられた爆弾も直接の被害者はイラク人だが、意図は米軍統治の混乱を狙ったものだ。主人公たちの「英雄的人助け」の前提に米軍のイラク侵攻がある点は、映画ではまったく触れられない。「大量破壊兵器の秘密保持」を理由に武力攻撃を開始、フセイン政権を崩壊させたが、結局、大量兵器は見つからず。でも今や、日本では「独裁者を倒して自由な社会になったから、結果的に、まあ、いいんじゃない」というムードだ。

 銃撃戦で武装イラク人が米軍兵士の正確な狙撃で一人一人射殺されていく場面があった。映画はもちろん米軍の視点から撮ってあり、観る側はイラク人に命中するたびに「やった」と喜ぶことになる。なぜ、アメリカ人が異国の地で、そこに住む人間と銃撃戦を行っているのか。そうした疑問は映画では提示されない。
 
 イラク人がこの映画を観たら、「ヒーロー気取りでいい気なもんだ」といったあたりが多数派だろう。

 ただ、この映画の複雑さは、そこに気がついて、あえて避けているのではと思わせる点だ。ここにスポットを当てれば、イラク戦争に賛成か反対か、いずれにせよ政治色の強い映画になる。主人公は、戦争のただなかで仕事をこなす秘訣を聞かれて「何も考えないことさ」とぶっきらぼうに答える。独裁打倒、民主主義実現、人権尊重、侵略反対…「現場では大義なんぞ、くそくらえ」ということだ。これも否定できないリアリティである。

 一部の例外をのぞきイラク人が英語を理解できず、米兵たちがイラつく場面が何度も出てくる。これもリアリティを支えていた。
相手が自分の言語を理解できないと不安になる。まして戦争のただなかだ。生死がかかっている。自己防衛本能から、こうした場合、正体がわからない相手、味方だと確認できない相手は、「敵」に分類される。しかも、アメリカ人の場合、他国での意思疎通ができない責任が、自分がその国の言葉を理解できないことにピンとこない。「なんでコイツら英語がわかんねえんだ。くそたれ」となる。英語がわからないためにかなりのイラク人が自分の街で米国人に射殺されたのではないか。この映画は、こうしたことも推察させる。

 観終わってから、いくつかの細部も気になりだした。もう一度、観てみよう。