ソシュールの孤独

日曜の楽しみは、新聞の書評欄だ。読売の書評欄では、買う気になった本が2冊あった。いずれも言語に関連がある。

 まずは、「フェルディナン・ド・ソシュール <言語学>の孤独、「一般言語学」の夢」(互盛央、作品社)。
 田中純(思想史家)の紹介文も魅力的だ。

 私たちは日本語や英語、フランス語といった言語が自分たちの外部に自律的に存在していると思っている。言語学者ソシュールが打ち砕いたのはこの通念であり、それは「言語学」そのものの破壊だったと著者は言う。

 言語学は近代国民国家の要請に応えるために生まれた学問だった。それは民族や人種と言語との強固な結びつきの主張となって表れた。

 「言語学」を疑い、言語について語ることの不可能性こそを見いだしてゆくソシュールの営みを、本書は<言語学>と表記する。この<言語学>は弟子たちにも、後の構造主義者たちにも受け継がれることはなかった。それゆえの「孤独」なのだ。

 ソシュールが<言語学>による「言語学」の破壊の果てに遠望した「一般言語学」とは、「国語」のない「民族不在のヨーロッパ」の可能性だった。
 その「夢」に向け逡巡を繰り返しながら粘り強くたどられた知的巨人の誠実な歩みを、著者もまた誠実にたどり直している。

 次は、「日本語の正体 倭の大王は百済語で話す」(金容雲、三五館)。評者は、小倉紀蔵氏(韓国思想研究家)。


 

たった200ページの本でこれだけ壮大なロマンをたのしめるのか。ぞくぞく身震いするような「物語」である。

 主な役者は日本語、百済語、新羅語だ。7世紀ごろまでこの3言語はそんなに違わなかったと著者はいう。だが日本語と韓国語が今、違う言葉のように見えるのは、なぜか。

 日本語は百済語の痕跡を色濃く残しているのに対し、今の韓国語は中国化した新羅語の影響をもろに受けて、変形してしまったという。

 決定的だったのは、日本では百済の影響を受けて漢文を訓読する方法が定着し、そこから日本独自の文学などが生まれたのに対し、韓国では半島統一後の新羅が全面的な唐化によって漢文を中国式に棒読みするようになり、音韻が膨れ上がって吏読(新羅式万葉仮名)では対応できなくなった点にある。
 その結果、現韓国語は現日本語の30倍もの音の種類を必要としている。この音韻を記述するためには、15世紀のハングルの創製を待たねばならなかった。

 「現韓国語がオリジナルで、現日本語はその変形だ」と誤解している韓国人が多いが、事実はその逆で、日本語の方が原型に近いという。

 1927年生まれの著者は韓国の著名な数学者であり、文化比較論者。日韓の古典から今の文化や社会まで、何から何まで熟知しているこういう世代は、もう二度と歴史に現れないだろう。この本は決して韓国ナショナリズムの書などではない。


 この2冊のほかにも、「発掘された聖書」(フィンケルシュタイン、シルバーマン著、教文館)も面白そうだ。

これは最新の考古学の成果を使って、聖書の史実を検証したもの。たとえば、ダビデ、ソロモンの父子二大の王が生きた前10世紀、エルサレムには大建築どころか、単純な土器片すらほとんど発見されないという。
旧約聖書の核心となる部分が書かれたとされる7世紀は、ユダの王たちでもっとも信仰深いヨシヤ王が宗教改革を行っていた時代であり、これに適合させて「史実」が作成されたというのが本書の指摘だ。ただ、この原著が出版後、エルサレム近くで大型建築物の遺構らしきものが発掘され、年代確定をめぐって現在、論議が続いているという。