北京は今(3)

 天安門広場故宮万里の長城、最新の巨大高層ビルなど、「大きいことはいいことだ」の中国的空間感覚には驚いた。しかし、意外性という観点から一番驚いたのが毛主席記念堂だった。

 ツアー4日間の最後の朝。話のタネに毛沢東の遺体でもみるかと、天安門広場にある毛主席記念堂に出かけた。

 記念堂は午前8時オープンで、午前8時10分に地下鉄「天安門東」駅から、広場に出た。天候は、大雨注意報クラスの土砂降り。だだっ広い広場を進んでいくと、雨に煙る遠方に何やら人の長い列が見えた。まさか…

 その「まさか」が適中した。

 記念堂の入口から延びた行列は広場中央で直角に折れ、さらに進んでまた直角に折れ、最後尾はもやのなかに消え、肉眼では確認できなかった。大雨の中、風船子が呆然と立っている間にも、添乗員が率いるおそろいの帽子をかぶった数十人単位の中国人団体客が次々に最後尾に向って行進していく。(写真参照)

 空港行きのバスがホテルを出るのは午前10時45分。この列に並んでいたら、とても間に合わない。入館は午前中だけ、入館料無料とはいえ、まさか、この天候で開館直後からこれだけの長蛇の列ができていようとは、まったく思わなかった。

 これが、今回ツアー中で、最大の予想外の出来事だった。
 

 空港に向かうバスの中でガイドの王さんに、この話をすると、王さんは「ワハハ、だいたい、あんなところに行くのは中国の田舎の人だけね。外国人も北京市民も行かないよ」と笑われてしまった。
 

「それからね」と王さんは続けた。

 「あそこにある毛主席の死体は、ニセモノなのよ。これはみんな知ってるよ」

 「えーっ。ほんとですか」

「わたしは最近10年ぶりに中に入って見てきたけれど、10年前よりも顔の血色が良くなっていたよ」(バス内爆笑)

 王さんの説明によれば、午前中の一般公開が終わると、遺体はエレベーターで地下30メートルにある冷凍庫に移され、また翌朝、展示室にあげられるという。

 「これを30年間も繰り返して、腐らないわけがない。そんな技術は中国にはないよ」

 「毛主席は田舎の中国人にとっては神さまのようなもの。これは人気があるというより、一種のお参りです」

 ここからの王さんの解説が面白かった。

「中国では死んだら、土に埋められるのがタマシイにとって一番安心できるといわれています。内臓を取り出した遺体を人前にさらすということは、死人に対する最大の侮辱ですよ。罰を与えていることと同じです。毛主席がかわいそうです」

へー、なるほどねえ。

社会主義国での最高指導者の遺体公開は、レーニン廟が有名だ。

これについては、埴谷雄高が「社会主義に対する裏切り行為」と指摘した文章が有名だが、毛沢東の遺体公開が中国の伝統宗教的基準から「刑罰」にあたるとの指摘は初耳だった。

真偽はともかく、改革開放時代の毛沢東の位置づけを考えると、なかなか含蓄があり、示唆に富む指摘だった。
 
 王さんの説明は続く。

 「私は中国的基準では右翼(風船子注:過激な走資派ほどの意味か)かもしれない。公式には、毛沢東は功績7:失敗3といわれているが、わたしは比率が逆だと思う。

 例えば一人っ子政策。毛主席は農村出身なので人の数が力につながると考え、『産めよ、増やせよ』を推進した。その結果、人口が増え過ぎて一人っ子政策をはじめた。子供を産むかどうかという基本的人権を政府が干渉するのは、おかしいでしょう」

 「それでは毛沢東の最大の功績は何ですか」と聞いてみた。

 「それは欧米と日本の支配から、中国を完全に独立させたこと。これは毛主席のおかげです。今や、アメリカとも対等の口がきけます。日本は今もアメリカのいいなりでしょう」

もっと聞きたいことはあったが、バスは北京空港に着いてしまった。残念。

 東京で外国人旅行者向けに、自国についての自分なりの分析を外国語で説明できる日本人ガイドがどれだけいるのだろうか。

もちろん、中国だって王さんのようなガイドばかりではないと思うが、別の日に担当してくれた趙さん(仮名)さんも、中国政府当局との微妙な距離感を、微妙な日本語でうまく伝えてくれていた。

 十分元がとれた格安ツアーだった。

 (注1)
天安門はかつて皇帝の即位などの国家の重大事に勅書を下す場所であったが、皇帝が姿を見せる場所ではない。権力はむしろ皇帝の身体を秘匿し、皇帝を包み隠すものものしい構造物だけを視覚化して支配の基礎に置いたのである。

 これに反して毛沢東は、天安門上に身体をさらして「中華人民共和国今天成立了」と宣言して以来、その身体をさらし続けることを運命づけられた。指導者・毛沢東は本来、それ自体は不可視の存在である人民の象徴であった。毛沢東の矛盾は、このためにつねに自分を視覚化せざるを得なかったことにあると思う。

 その行き着く先は死後も水晶の柩に納めた厚化粧の遺体を永久に保存して「人民」の視線にさらし続けることだった。なかば人民の観光の対象となってしまった毛沢東の遺体はある種の痛ましさをともなった複雑な感慨を与える」

春名徹「北京―都市の記憶」(岩波新書

(注2)

 元来、仏教は輪廻転生なので墓はいらない。インドでは遺体を焼いて灰をガンジス川に流す。
 
 しかし中国では儒教の影響を受け埋葬の習慣があった。儒教では二種類のスピリットがある。一つは「魄」。これは白骨に宿る鬼(霊)で、埋葬され墓にある。もう一つは「魂」。これは雲気の如く肉体を離れるので雲偏がついており、木の札に憑けてお廟に祀る。儒教ではこれを木主などと呼ぶが、これが中国仏教と混入し日本に至って仏壇の位牌となった。

「東アジアの思想風景」(古田博司岩波書店