「名文記者」の限界

「記者風伝」(河谷史夫朝日新聞出版)を読む。

 「名物記者」たちの列伝モノだが、褒める書き手も、褒められる「名物記者」たちも、僭越ながら「なんだか、いい気なもんだ」というあたりが読了の感想。「ブンヤの限界」を感じた。

 ジャーナリズムは、絵画史でいえば歴史画と同じではないか。歴史画が神話や聖書などの「物語の枠」を成立の前提にしているように、ジャーナリズムも「当該時代の社会的価値観」を成立の前提にしており、その時代の基準による「良いか悪いか」の判断はできても、「社会それ自体」を語る文法を持っていない。絵画の世界では、「視覚それ自体」を問う試みが印象派以降、活発化するが、ジャーナリズムの世界では、ピカソウォーホールどころか、いまだに一人のモネも生んでいないのではないか。

 かくて新聞記事が原理的に自己言及性を欠如しているため、「名物記者」が書く「名文記事」からは、子供っぽい自己満足が生む無邪気な印象を受ける。この観点からは、同書に短く掲載されていた「詩人になった記者」の項目に、書き手としての「屈折」を感じ、「ジャーナリズムに懐疑的なジャーナリズム」の芽を感じて、関心を持った。

また、紹介された記者のほとんどが後に新聞社幹部になっている。河谷氏も、紙面でのいつもの皮肉な文体は影をひそめ、その後の出世ぶりを「名記者」の証拠とばかりに、彼らの出世ぶりをご丁寧に紹介している。やれやれ。

日本で有意義な「記者モノ」を書くには、上記のような「有名記者」ではなく、サラリーマン兼ジャーナリストという状況を意識しながら、現場で悪戦苦闘している「無名記者」たちを通じて、新聞ジャーナリズムの「可能性と限界」に迫るしかない。ただ、とても売れるとは思えないが…。