存在論と信仰

ハイデガーにおける存在論と信仰
 
 
In January 1919, he announced his breach with the ‘ system of Catholicism’  (p2)


 カトリック教会で働く父を持ち、10代でカトリックの厳格な学生寮で暮らし、カトリック保守派の活動も行い、聖職者になろうと修道院入りを決意した人間が、なぜ30歳でカトリックを捨てたのか。

 当時、ハイデガーは、知人にあてて「カトリックへの決別」について手紙を書いている。

 自分はこの二年間、自らの哲学的な態度を原理的に明確にするべく努力してきたが、その結果、哲学以外のところから束縛を受けていては、自分の信念や思想に自由を保障できないような結論に達してしまった。…自分には、カトリシズムのシステムが問題を孕むものであり、もはや受け入れ難くなった。

ハイデガー 存在の歴史」(高田珠樹、p104−p105)

 しかし、カトリックを完全否定したわけではなかった。

 

キリスト教形而上学については新たな意味でそれを受け入れたい。カトリック的な生活世界を高く評価する点では変わらない。

 しかし哲学者として生きることは難行であり、自分や自分が教える者たちに対して内的に誠実であるには、犠牲や諦念、闘いも必要である。私は…力の及ぶ限り内的な人間の永遠の責務を遂行し、それを以て自分の存在と行為に対して神のみ前で胸を張ることができる…

 カトリックとの訣別宣言でもあり、同時に、哲学への新たな「信仰告白」ともとれる。

 46歳の時にフライブルク大学で行った「形而上学入門」と題する講義では、哲学と信仰との位相の違いを指摘したうえで、「哲学の存在理由は、宗教的愚行のなかにこそある」と、哲学の神学からの独立性を宣言している。
 

 たとえば聖書が神の啓示であり、真理であると信じている人は、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いに対し、問う以前にすでにその答えを持っている。すなわち、「存在者は神によって創造された」との答えである。

 …しかし、この人は、信仰者としての自己自身を断念するのでない限り、この問いを本来的に問うことはできない。この人は、この問いを問うようなふりをすることができるだけである。
 …他方から言えば、不信仰になるかもしれないという危険にいつもさらされているのでなければ、本当の信仰ではなくて一種の安逸であり、何かの教理にすがりつこうと思い定めていることになる。


 …信仰のなかの安堵ということに言及したからといって、「始めに神、天地を創りたまえり」という聖書の句を引用すれば、われわれの問いに答えたことになると言っているわけではない。この句はわれわれの問いとは関連がないので、われわれの問いに対する答えではありえない。

 われわれの問いの中で真に問われていることは、信仰にとっては愚かなことである。この愚かなことの中にこそ、哲学は成立する。「キリスト教哲学」というものは、木製の鉄のようなものであり、誤解である。哲学は、根本的にキリスト教的な信仰にとって愚かなことである。

 哲学するとは「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」と問うことである。ほんとうにこのように問うということは、この問いが問うことをわれわれに要求しているそのものをあらわにすることによって、この問いの汲み尽くし得ないものを汲み尽くし、余すところなく問い尽くそうと、敢えてすることである。このようなことが生起する所、そこに哲学がある。

形而上学入門」(ハイデッガー、川原栄峰訳、平凡社ライブラリー

 「モノが在るとは、どんなことなのか?」の問いに、「モノは神さまがお創りになった」と答えれば、それでおしまい。創造神を持つ宗教に、存在論は成立しない。

 もちろん宗教のなかには、存在論的思索はふんだんに含まれているが、ハイデガーが考える存在論の最重要の問いに対しては、創造神的な宗教はまったの無効である。