映画「日本の悲劇」、舞台と映画の高度な合体

 映画「日本の悲劇」を観た。

 快作、いや、怪作といった方がよいかもしれない。もちろん、快作以上の価値があるという意味だ。

 全編、「演技の力」が漲っていた。舞台劇のような緊張感はあるが、舞台劇のような虚構性はない。強度を持つ演技によって生み出されたリアリズム。仲代達矢は、いつもなら気になる新劇風過剰演技を見事に抑え込んでいた。北村一輝もこれだけハイレベルの役者とは知らなかった。佐藤浩一を連想した。
 難を言えば、ストーリーに東日本大震災に絡めない方が映画の「純度」がより高くなったと思った。気持ちは痛いほどわかるが。

「年金不正受給問題を題材にした社会派映画」と紹介されるのかもしれないが、本質はそこにはない。藤原帰一の映画評が個人的には一番、自分と近いと感じた。

 登場人物は2人だけ、舞台も変わらずカメラも動かず据えっぱなし。画面に映るものはギリギリまで絞り込まれているのに、芸術を気取るような思い上がりの影もなく、一貫して緊張が途絶えません。


 現代日本社会の窮状が背景にある映画には違いありませんが、社会問題の告発のようにみるのは、ちょっともったいない。

 
それを支えるのが俳優の演技。…どの俳優も台詞に頼らずキャラクターを造形しています。そして何よりも、編集や照明や脚本の台詞に頼ることなく俳優の力を信じ切った監督がすごい。こういう映画もあるんだと驚かされる作品です。


 藤原帰一(9月1日付、毎日新聞日曜版)


 監督の小林政広は、「恋の予感」を以前、ポレポレ東中野で観て、衝撃を受けたことがある。もう一度、「恋の予感」を見たくなった。