漱石と心臓の鼓動

 通勤途上で突然、主人公が寝床で自分の胸に手を当て心臓の鼓動を確かめる小説の場面を思い出した。読んだのは10代だった。夏目漱石の長編小説だったはずだ。帰宅してネット検索すると、すぐ見つかった。長編小説「それから」の冒頭だった。

 代助は昨夕、床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。
 
 ぼんやりして、少時、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈を聴いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確に打つてゐた。彼は胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像して見た。是が命《いのち》であると考へた。自分は今流れる命を掌で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌に応へる、時計の針に似た響は、自分を死に誘ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかつたなら、如何に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生を味はひ得るだらう。けれども――代助は覚えずぞつとした。


 彼は血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所を鉄槌で一つどやされたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。

 10代で読んだとき、自分も左胸に手をあてて心臓の鼓動を確認したことを思い出した。受験や学校での人間関係といった個人的悩みから冷戦下の世界の行方まで、頭の中は混乱を極めていたが、それもこの心臓が動きを止めればすべてが消える。そう思うと、心臓の鼓動が頼りなく感じられ不安と恐怖が募った記憶がある。漱石の「自分を死に誘う警鐘」の表現が身にしみた。
 
 それから40年ほどがたった。すでに漱石の享年を超えてしまった。冒頭を再読したが、「不安と恐怖」を感じはするが、加齢による諦観、先日の母の急死などのせいか、かつて感じた逃げ場のない切迫した怖れは起きなかった。むしろ、「警鐘」よりも「死に誘う」との表現に親近感さえ感じた。


 加齢に伴う死への受容の進行。よく聞く話ではあるが、その進行をかなり実感できるようになった。それほど悪い気分ではない。若造にはわかるまい。「えっへん」である。