「悟り」とは思い出すこと也

久々に、論語研究会の「講師曰く…」

 プラトンイデア論では、人間は生まれる前にすでにイデアを見ている。そこで、真理は「思い出す」ものになる。「善」は人間に本来備わっているものとする儒教の考えもそれにちかい。
 
 儒教性善説は、パソコンに例えれば、「ソフトウエアは完全だが、個々のパソコンのハードウェアに欠陥がある」ということだ。この人間観に基づくと、個人の努力で各々のハードウェアの欠陥をなくせば、ソフトウェアの機能を十分に発揮できるはず、となる。朱子学では、特にこの文脈で各自の努力が重要視される。

 朱子学はその裏返しで、超越的なものは最低限度しか認めない。超越的なものへの依存(祈り)には否定的で、あくまでも自助努力を重んじる。


 この関連で、「メノン」(プラトン)から、プラトンの想起説を引用しておく。

 (ソクラテス)…こうして魂は不死であり、もう何度となく生まれてきたのであり、この世のものも、冥府のものも、つまりありとあらゆるものをすでに見てきたのであるから、魂がまだ学習していないものは一つとしてないのである。かつては実際に知っていたものであるから、魂には(すべてについて)想起することができるとしても何の不思議もない。

 次は、山水画の見方について、講師、曰く…

 中国の山水画には、絵の中に小さな人間や家が描かれている。山水画の鑑賞法は、絵の外からではなく、絵の中の人物になった気になることが重要になる。幽谷のなかの川で釣りをしている老人が描かれていれば、自分がその老人になって釣りをしている心境になるのが、正しい山水画の見方になる。


 ゆえに、山水画には、一点透視などによる遠近法の発想はない。遠近法は、視覚の対象を自分の視点から写し取る方法だからだ。

 絵画を見るときに、鑑賞者の視点はどこにあるのか。この論点からは、いろいろ膨らませることができそうだ。


 以前、紹介したが、儒教における「男性優位主義」とは…

 現代中国語、韓国語では、父方の祖父母と母方の祖父母の呼び方が違う。これは、「血統は男系のみで伝わる」との儒教的な男系主義によるもの。儒教的男系主義の影響で、韓国では伝統的に同姓同本間の結婚できなかった。ただ違法ではなく、先年、韓国では最高裁判決で「同姓同本間の結婚禁止」に対しては違憲判決が出て合法性が確定した。それでも、社会的にはまだ抵抗があるという。

 孔子は結婚していたが、論語には弟子の話はたくさんあるが、孔子自身の妻の話は皆無。これは、統治の学である儒教では、女性としての完成は家の中にあり、統治という「家の外の仕事」とは無縁であるから、女性は対象外とされる。男は陽(外)で女は陰(内)が基本。男は種子で、女は畑。大根の種は、どこに植えても大根が生えてくる、というわけだ。

 しかし、福沢諭吉は、男女の実態を考えると、「男こそ陰で、女は陽」と真っ向から批判した。