佐藤優と「うのみ」問題

これまで「つまみ読み」をしていた「国家の罠」(佐藤優新潮文庫)を遅まきながら通読した。非常に面白かった。商業的記事の成立要素は、つきつめれば「役に立つ」、「面白い」の二つにしぼられる。「役に立つ」とは具体的情報に富んでいること、「面白い」とはストーリー展開、レトリック、視点に魅力があること。この本には、この2要素がかなりハイレベルで備わっている。


自分の体験談、しかも逮捕、拘留という強烈な体験であれば、自己陶酔に基づく感情過多の文章になるのが通例だ。しかし、この本は、当事者の聞き書きを元に、プロの書き手が当事者の一人称でつづったドキュメンタリーのようだ。デビュー作でこれほどの完成度は、確かにただものではない。

政府与党、外務省、検察庁…その動静は、マスコミを通じての間接情報で知らされているが、実名で楽屋裏の話をこれだけ詳細に読めるのは、非常に貴重だ。こういう場所にいる人たちの本音発言で、その人物のレベルまで測定できる。

一部を紹介してみる。


 (東郷和彦欧亜局長は)、極端な能力主義者で、能力とやる気のある者を買う。酔うと東郷氏がよく言っていたことがある。


 「僕は若い頃、よく父(東郷文彦・外務次官、駐米大使を歴任)と言い争ったものですよ。父は僕に『外交官には、能力があってやる気がある、能力がなくてやる気がある、能力はあるがやる気がない、能力もなくやる気もないの四カテゴリーがあるが、そのうちどのカテゴリーが国益に一番害を与えるかを理解しておかなくてはならない。お前はどう考えるか』とよく聞いてきたものです。


 僕は、能力がなくてやる気もないのが最低と考えていたのだが、父は能力がなくてやる気があるのが、事態を紛糾させるので一番悪いと考えていた。最近になって父の言うことが正しいように思えてきた。とにかく能力がないのがいちばん悪い」

 これは、どこの会社でも「できる上司」と自負しているオヤジが言いそうな台詞だ。

能力は、「速く走る能力」、「人を笑わせる能力」といったように、つねに具体的な対象を必要とする。「仕事の能力」といっても、そこには交渉や調整、研究や会計まで、さまざまだ。しかし、どの職場でも流通しているのが「能力一般」の存在を前提とした対人評価の言説である。「能力一般」への信仰が、「能力のある人間」になる条件かもしれない。


「信頼する外務省幹部」による、以下のような発言もあった。

新聞は婆さん(田中真紀子)の危うさについてきちんと書いているんだけれど、日本人の実質識字率は5%だから、新聞は影響力を持たない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく。残念ながらそういったところだね。


別に解説の必要のない新鮮味のないコメントだが、こういう「皮肉屋気取り」もいるだろうな。外務省の実質識字率が気になるところだ。


佐藤の「書き手」としての腕の確かさは、食べ物の描写にも出来ている。食べ物、しかも拘置所での食べ物がほんとうにおいしそうに描かれている。できそうでできない芸だ。

 
ただ、もちろん本書も、自己正当化の歪みを免れているわけではない。最近の佐藤の著述活動は、質量ともに信じられないほど精力的だが、ときに「情報のプロ」としての過剰な自意識が鼻につくこともある。
 
文庫版解説になぜか川上弘美が場違いに登場して、やや場違いの感想を述べているが、以下の部分には「さすが」と感心した。


 本というものは、それがいい文章で書かれていれば、おおかたの読者は語り手に感情移入する、の法則があります。


 けれど、わたしは読みながら、「わたしは、ここに書いてあることは、全部うのみにしないでいよう。うのみにするかわりに、しっかり覚えておこう」と思ったのでした。


 いろんなんことをうのみにしない方がいいよ。作者はこの本の中で、さまざまに声を変えてそう言っているように、私には思えたのです。

 多面的にものごとを見ることが、大事なことなのですよ。

 ぜんたいの記述を通じて、そんな作者の声が、わたしの頭の中には、なり続けていたのです。不思議な事でした。(作者が)その告発自体をまるのみにしてはいけない、と行間から語りかけてくるなんて。