「20世紀少年」、その「終末」論など

 この年になって恥ずかしいが、夏休みの一日、マンキツにこもって、「20世紀少年」22巻を読了した。なんだかまだ頭がボーッとしている。

 この時点で思いついた断片的感想を並べてみる。

◆終盤の失速
 多くの読者が指摘するように、確かに「終わり」は成功とは言い難い。あれだけストーリーをどんどん拡大させていくと、収束させるのは非常に難しい。物語が終盤に近づくにつれて、物語(虚構)の自家中毒が進行して、物語が自壊していくように感じた。

 ハッピーエンドというのは、物語の自壊作用をくいとめる有効でお手軽な手段だが、これに反発しつつも捨てられなかったのではないか。

 反面、終盤になるまでの物語の吸引力は、素晴らしかった。ストーリー自体は荒唐無稽だが、スケールの大きな、あり得ない世界に読者を引きずり込む腕力には驚いた。
 
◆日本人の顔
 マンキツを出て外を歩いていたら、通行人の一人ひとりの顔が、読んだばかりのマンガの登場人物に見えてきた。それだけ、顔の表情には現実感があった。狡猾、善意、怒り、失望…こうした感情、思考が、日本人の表情にどのように反映されているのか。日本では、絵画よりも、マンガの方が、この課題をより高度に達成していると思う。これは大友克洋あたりが起点か。それまでのマンガの約束事を粉砕した大友の「ショートピース」を初めて目にした時は、衝撃だった。そのせいで、手塚マンガが子供っぽく思えて、読めなくなってしまった。

◆「起点かつ基点」としての少年時代
少年時代、特に小学校高学年あたりの社会経験が、人生全体に持つ影響力の大きさが、この作品の大きなテーマになっている。始まりであり、戻る場所としての少年時代。
 この時期は、自覚してはいないが、社会的自我を形成することにもっとも集中している年代だろう。10代後半までに一応、社会的自我ができあがり、その後は、逆に自分が作った社会的自我の副作用に悪戦苦闘させられるのが浮世の習いだ。

原っぱ、秘密基地、予言、大阪万博浦沢直樹は少し年下だが、風船子も九州の一隅で同様の日常を体験して育ってきたので、この作品の具体的エピソードには強いノスタルジーを感じる。それが、物語への感情移入を促進している面もある。今の若い世代が、こうした高度成長期のエピソードに対して、どのように反応しているのだろうか。これは興味がある。

予言といえば、小学四年生の時に、少年マガジンに予言特集があり、その中に「1970年に世界は滅亡する」という小さな記事があった。「ばかばかしい」と思いながらその後もこの予言が頭に残り、中学3年でこの年を迎えた時、「世界は今年で終わりかもしれない」と心の隅でおびえていた。だれも5秒後のことはわからない。予言の呪縛力は確かに恐ろしい。

◆今晩、映画版「20世紀少年」もテレビ放映されるので、ちょっと見てみるか…

3時間後。

うーん、やはり映画化でもエンディングに苦労していた。それも、かなりいじくりまわし、悪戦苦闘の末に「救済の物語」でオトシマエをつけていた。

うーん、気持はわかるが、うーん、やはりもう少し違う方向で挑戦してほしかった。