ちょんまげ議員とサムライ政府

 NHKの「龍馬伝」で、ようやく寺田屋が登場してきた。

 寺田屋は幕末、薩摩藩の定宿であり、文久2年(1862年)には薩摩藩などの急進派とそれを止めようとした藩主側の武士が斬り合いとなり、9人の急進派が死亡した寺田屋事件の舞台となった。さらに、慶応2年(1866年)には坂本竜馬が宿泊中に襲われ、間一髪で逃げ出す事件もあった。
 
 1年半前に訪れた時は、宿の柱には、「刀痕」、「銃痕」の紙が貼られ、懐からピストルを出して襲撃に応戦する竜馬の姿が生々しく浮かんできた。しかし、先年、京都市から依頼された専門家が、「寺田屋は維新後に全焼しており、現在の建物は明治になって再建されたもの」との調査報告を公表した。それでは、あの柱の傷は何なのか…。
入場料売場の脇に、このニュースを報じた京都新聞の記事が貼ってあった。記事の中には、「調査は調査。私たちは当時の寺田屋だと信じて、展示を続けていく」とのコメントが掲載されていた。といわれてもねえ。

 歴史学に「イフ」はタブーだが、学者ではない身にとって、歴史的想像力こそ歴史を学ぶ大きな楽しみである。 時々思うのは、もし日本が徳川時代のまま近代化を実現していたら、という「イフ」である。

 周知のように、土佐藩の建白を受け入れて大政奉還(1867年10月)を申し出た徳川慶喜の真意は、徳川家支配の放棄ではなく継続だった。慶喜の要請で幕臣西周が作った幕府の新国家構想は、行政と議院の二権分立制で、国会は、大名からなる上院と藩士からなる下院で構成されることになっていた。また朝廷の公家は、京都に留め置かれ、京都以外の地域では「平人」と同じ扱いになっていた。

 幕府と距離を置いていたイギリス公使パークスも、この大政奉還について、「リベラルな運動であり、慶喜は時代の要請にふさわしい人物」として高く評価する報告書を本国に送っている。幕末維新史の研究者、井上勝生は、「維新政府の権威主義的な天皇制国家より、リベラルな国家をめざしていた」と指摘している(「幕末・維新 シリーズ日本近現代史①」岩波新書)。

 大政奉還は、慶喜にとって、譲歩ではあったが、大名連合政府が実現すれば議会も含め、大名の数で圧倒する徳川宗家の優位は動かず、実権を維持できるとの計算があったはず。しかも、情勢次第ではその可能性はあった。しかし、二か月後、「討幕の密勅」を引き金とする、一種のクーデターである「王政復古の大号令」が成功して、徳川時代は終息へ向かっていく。

 徳川時代が続き、ちょんまげの国会議員が生まれ、リベラルなサムライ政府ができていたら、近代日本はどんな道を進んだのだろう。なかなか楽しめる想像だ。

※写真は寺田屋の全景と室内。柱には疑惑の「刀痕」が。