今年は「論語」でようやくスタート

今年の第一弾は、久々に論語読書会の「コウシ曰く」シリーズにします。


今回読んだのは、論語子路十三」。

 狂者は進みて取る。狷者は為さざる所あり。

(狂者は行いは伴わないが、志が極めて高くて進んで善を取ろうとする者である。狷者は、知は足りないが節操を守り決して不善を行わない者である。=宇野哲人訳「論語新釈」)


 孔子の「狂者」評価は、以前にもこのシリーズで紹介したことがある。
 http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20110206

 日本では、「儒者=前例踏襲の真面目くさった優等生」のイメージがあるが、孔子は、「中道」の次に、意外にも優等生とはほど遠い「狂」と「狷」を評価している。


コウシ(講師)曰く

 孔子は、実直だけ、真面目だけ、従順なだけではダメだとしている。日本では明治時代、論語に修身の教科書的な意味を持たせたために、このような「狂狷」を評価する孔子の観点が見えなくなってしまった。


 論語には、「郷原は徳の賊なり」(田舎で謹直の士ともてはやされている者は、道徳どろぼうである)との言葉もあり、孟子も引用している。これは、孔子の偽善者に対する激しい怒りである。

 このあとに、「郷人、皆之を好めば如何」(その土地のだれもからも善人として好かれている人はどうですか?)と聞かれた孔子は、「未可(まだ善人とはいえない)」と答えている。

  

 秩序重視とされる儒教だが、前例踏襲型、環境適応型の秀才を否定し、狂狷の持つ主体性を評価している。儒教理解において、これは重要。

 
君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。


 有名な章句だ。これも付和雷同を否定しており、別に説明は不要だろう。「左伝」を典拠にした吉川幸次郎の説明(「論語」朝日選書)が面白かったので紹介する。

 「和」とは、たとえば吸い物が、水、火、醤油、塩、梅酢と魚肉との調和であるごとくである。それに対し「同」とは、水に水を足し、また琴の絃のおなじところばかりをたたくようなものであって、なんら建設的でなく、生産的でない。

 
邦、道無きに穀するは恥なり

(官吏として仕える国家に道がなければ、俸禄をもらうのは恥である)

 儒教における「道」とは。コウシいわく、

 何か個別の仕事を極めることは儒教における「道」ではない。儒教では、専門の自己目的化を評価しない。玩物喪志。日本では、一生をかけて工夫しながらいつか完全なXを作ろうと努力している職人を「X道を一筋に歩む者」として称賛するが、これは儒教的評価には値しない。例えば、中国語では「書道」といわず「書法」という。「道」は専門家ではなく、だれにとっても大事なもの、普遍性がある。身分的倫理である規範に「武士道」などと「道」をつけるのは、ありえない。

 中国における儒教の覇権確立の要因は?

 百家争鳴のなか、儒教が覇権を握るまでには長い時間がかかった。覇権実現には、「天子は、天命がくだって天子になっている」との政治指導者肯定の理論が、大きく貢献した。後漢時代には覇権が確立、その後、儒教を受験科目にした科挙が実施されて、支配層の儒教化が進んでいく。儒教の力としては、清朝末期が一番強かったといってよい。


 内面倫理としての「恥」とキリスト教の「罪」

 論語には「恥」が17回も出てくる。儒教では「あの世」がなく、「この世」での悪事が「あの世」で罰を受けることはない。倫理の土台は、「恥」の感覚に依拠している。いわば、「羞恥心が支える道徳」といえる。

 キリスト教の「罪」は、いつも自分を見ている神に対して感じるもの。ルース・ベネディクトは「菊と刀」で、東洋の「恥」は他人の目を基準にしているが、欧米の「罪」は内面的なもの、としているが、これは間違い。儒者にいわせれば、キリスト教は、「この世」の善悪を「あの世」での損得を基準に考えており、功利的で下品である、となる。「恥」を倫理的基礎としているのは、世界的にも珍しい。

 ただ、日本の武士における「恥」は、ちょっと違う。武士にとっての「恥」はモラルの重要な基準だが、これはあくまでも身分的名誉感であり、百姓町人は対象外。もし、幕末に江戸で幕府と薩長が武力衝突をしても、武士は「逃げるのは恥」なので戦うだろうが、町人はさっさと逃げ出しただろう。儒教的な「恥」は、「道」と同じく、「人間として恥ずかしい」ということ。


こういう文もあった。


(小人)人を使うに及んで、備わるを求む。
(小人は、その人の器量に応じて人を使うことができず、人を万能だと思い込んで何でもやらせようとする。


 こんな箇所があるので、「ビジネスに生きる論語」的なビジネス書がわんさか出ることになる。確かに耳が痛い。



http://blogs.yahoo.co.jp/soko821/27997798.html