「書くこと」の原罪

 作家カミュが「本能的な恥じらい」を持つ人であったというのが、前回のお話だった。これに対し、中島義道は、「書く人間は恥知らず」と主張する。

 家族の醜態を、妻との確執を、自分のセックスライフを書いて、あるいは人生に絶望していることを書いて、その売れ行きを心配する。こうした神経はどう考えてもまともではありません。といくら言っても、もはややめることができないほど、十分に鈍感で、十分に下品な人が、書き続けることができるのです。

                 「人生を<半分>降りる」(中島義道、ナカニシヤ出版)

 ここで「書く」というのは、「公表を前提に書くこと」を意味する。なぜ書いたものを机の引き出しに入れておかないで人目にさらすのか。さらに、それを刊行し、報酬を得ようとするのか。

 中島は、「書くという行為は、つねにある種の『知性の犠牲』を要求する」とのたまったヴァレリーを引く。

 一般に優れた人間と呼ばれているのは、思い誤った人間なのである。彼は、人々に驚いてもらうためには、彼をみてもらう必要がある。そしてみてもらうには、おのれを人目にさらさねばならない。そして、「優れた人間」は、名前を知られたいという愚かしい偏執にとりつかれている姿を示すのである。

 
 こういうわけで、どんな大人物も、まず第一に、おのれを人に知らせるという過誤を犯している。
 
                            「テスト氏」(ポール・ヴァレリー


 そのつぎに、高橋源一郎太宰治の短編「親友交歓」に寄せて書いた記事が紹介される。これは20年前の新聞記事に掲載されたものだが、この記事を読んだ時に感じた衝撃を今でも鮮明に覚えている。


 「親友交歓」は、流行作家になった太宰治を小学校の同級生だった農民が訪ねてくる話だ。農民は、さんざん酒を飲み、おまえの小説はくだらないと悪態をつつき、帰り際に太宰にこう叫ぶ。


 「威張るな!」


 以下は、タカハシ節。

 ものを書く人はそれだけで不正義である〜作家太宰治のモラルはこのことにつきている。


 ものを書くということは、きれいごとをいうことである。自分はこんないいやつである、もの知りであると喧伝することである。いやもっと正確にいうなら、自分だけが正しいということである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人は、そのことから決して逃れられぬのだ。


 太宰を訪れた「親友」は、もの書かぬ人の代表だった。それは読者ということさえ意味していない。もの読む人はすでに半ば、もの書く人の共犯であるからだ。


 もの書く人である太宰は、もの書かぬ人の全身を使っての抗議に、ただ頭を下げるだけである。もの書く太宰は、もの書くことの「正義」という名の不正義を知る数少ない作家である。


 もの書く人と、もの書かぬ人は不倶戴天の敵同士である。「親友交歓」の中で、(双方は)そのことに徹底的に気づくのである。もの書く人は、なにをしていいのかわからず、もの書かぬ人は先に「威張るな!」といったのである。


 それは「わかった」ということなのだ。「この溝は越えられぬ。だから、お前はいつまでもその不正義を行使するがいい。おれは死ぬまで、お前のやることを見ているぞ」といっているのである。


                 高橋源一郎、「朝日新聞」1992年3月26日付け夕刊所収

 これを受けて、ナカジマ節が続く。

 太宰は自分の傲慢さと下品さを骨の髄まで自覚しても、それでも「書くこと」を選ばざるをえないこと、ここにもの書きの宿命が生じてくる。


 自分が傲慢に、下品になることを恐れているあいだ、自分を他人を傷つけることを恐れているあいだは、もの書きにはなれない。もの書きとは、あえて自覚的に傲慢と下品とを選びとった人々なのです。


 世の中には、「書くこと」に疑いを持たない脳天気なもの書きがどんだけいるのか。